七転び八起きのスタイリスト。宇和島英恵はパリと日本の感性で道を拓く。

書き手 川内 イオ

写真 小倉 亜沙子

七転び八起きのスタイリスト。宇和島英恵はパリと日本の感性で道を拓く。

七転び八起きのスタイリスト

ルイヴィトン、シャネル、ジバンシィ、ランコム、ランバンといった海外ブランド。トヨタ、ソニー、キャノン、ユニクロなどの日本メーカー。ここに挙げたのは、ファッションスタイリストの宇和島英恵(うわじまはなえ)さんが、これまでに仕事をしてきたクライアントの一部だ。昨年には、動画配信サービス・ネットフリックスの人気番組『クィア・アイ』の日本編『クィア・アイ in Japan!』でも仕事をした。

ファッションスタイリストと一口に言っても様々な仕事があるそうだが、英恵さんは主に広告のスタイリングをしている。クライアントが広告を作る際に、コンセプトに合った服を提案し、現場でモデルの着こなしまでチェックして世界観を表現する、まさにファッションの知識とセンスが問われる仕事である。

ところで、皆さんはどうやったらスタイリストになれるのか、ご存じだろうか? これだけの実績を持つ英恵さんだけど、実はやむを得ず、何度も方向転換をした末に、ほとんど偶然のきっかけで今の仕事に就いている。七転び八起きともいえるそのユニークな歩みは、パリから始まった。

ファッションスタイリスト

宇和島英恵

2002年渡仏。2008年にフリーランススタイリスト として独立。外資系企業の広告や雑誌の仕事を手掛け、同時期にLOUIS VUITTONのスタイリングチームにプロダクトスーパーバイザーとして5年間参加する。2013年、東京に拠点を移し、大手企業の広告・カタログ ・CMをはじめ、衣装に関するディレクションから撮影までを一貫して担当する。

23歳の専門学校2年生、パリへ

2002年3月27日、23歳の英恵さんはシャルルドゴール空港に降り立った。宿に向かうタクシーのなかで、まだ冬の気配が色濃く、肌寒くてどんよりと薄暗いパリの街を見ながら、英恵さんのテンションは下がっていた。

「花の都パリはどこ?」

この時、彼女は服飾の専門学校、エスモード・ジャポンの国際科の2年生だった。

パリに至るまでも、少々遠回りした。高校3年生の時、大学受験に失敗。1年浪人して迎えた受験日当日、「今の時代、英語は必要だし、英語をやろう!」と思い立ち、留学を決意。両親を説得してカナダのトロントに向かった。

そこでオシャレな日本人ふたりと仲良くなったことで、高校時代からファッションが好きだった英恵さんは「ファッションの勉強をしたいかも」と思うようになったそうだ。

1年後に帰国して両親に相談すると、反対された。

「あなた何を言い出すの? 手に職を持つことには賛成するけど、ファッション業界のことはわからない。才能なきゃやっていけないわよ。入社して、いい人見つけて結婚するのだって幸せなことなんだけどね」

母親のこの言葉はむしろ「言い出したら聞かないタイプ」という彼女の心に火をつけた。1年間、アパレルショップでアルバイトした英恵さんは、2001年の春、22歳のときにエスモード・ジャポンの国際科を受験し、定員30人の狭き門を突破。この時、目指していたのはファッションデザイナーだった。

行き当たりばったりのパリ生活

国際課の生徒は、2年次からパリ校に移る。ファッション業界を志す若者にとって、本場で学ぶ日々は大きな刺激になりそうなものだが、英恵さんにとってはそうならなかった。

「まず、人が好きではなかったですね。嫌味ったらしくて文句が多い、そしてなんだか適当。ファッションも東京のほうがおしゃれで、パリジェンヌのファッションを格好いいとは思いませんでした。だから、うわー、パリになんてこなきゃよかったって思っていましたね」

学校の授業にも満足できず、1年で中退。デザイナーになるのも諦めた。

「デザイナーとして2、3シーズンできたとしても、そのあと、5年、10年とアイデアが出るのかなと思ったら、無理だなと思って」

次に目指したのは、モデリスト。デザイナーのアイデアを具現化するために、パターンやサンプルを作るのが役割だ。英恵さんは、「パリで一番」と評判で、修了するとモデリストの資格を取得できるモデリスト養成学校A.I.C.P(Academie Internationale de Coupe de Paris)に入学した。

ところが、学び始めて気が付いた。モデリストの仕事は繊細過ぎて、感覚で動く自分には合わない。これは違う! と感じ始めると心が離れ、単位を落として、資格を取得しないまま卒業することになった。

……このあたりで、「おいおい、そんなんで大丈夫かい?」と心配になる人もいるだろう。彼女の行き当たりばったりの人生は、もう少し続く。

最初のクビ

モデリストになるのをやめた英恵さんは、ファッションショーに参加する日本企業の通訳やサポートをするコーディネーターになろうと考えた。エスモードに通っていた時に日本人コーディネーターと知り合い、興味を持っていたのだ。その人とは気が合い、連絡を取ると簡単な手伝いをさせてもらうようになった。

駆け出しというにも早い、最初の一歩を踏み出したその頃、別の機会に知り合った企業の人から「ちょっと雑誌のコーディネーターしてみる?」と聞かれた。「日本からきたスタッフを南仏の撮影に連れて行く」という仕事で、英恵さんは気軽に引き受けたが、そんなに簡単な仕事ではなかった。

パリに戻る日に大雪が降り、電車がストップ。パリに戻ってからのスケジュールも決まっていたため、彼女は苦手なフランス語で、もとのチケットをキャンセルし、新しいチケットの手配をして、なんとかパリに戻った。それでホッとしたのもつかの間、彼女を待っていたのは、「クビ」の宣告だった。

「クライアントから、アシスタントっぽい感じの人をメインにしないでくれって言われたみたいで。初めてだったということもあったし、なにより圧倒的にフランス語力が欠けていました」

さらに続くクビと失敗

この一件でコーディネーターの責任の重さに気づき、「今の自分では力不足」と感じた英恵さん。すると、前述の日本人コーディネーターが、日本のデザイナーも扱うPRオフィスを紹介してくれた。PRにも興味があったのでインターンとして入社すると、そこではスタッフと気が合い、充実した毎日を過ごすことができた。

しかし、契約満了を迎えるにあたり、「自分でなにかを表現したい」という想いから退社を選択する。この時、スタイリストのアシスタントをやっているドイツ系ベトナム人の友人から仕事を紹介してもらい、スタイリストのアシスタントとして企画から撮影までのノウハウを学んだ。

その頃、コーディネーターとして南仏に滞在していた時のある出来事が思い浮かんだ。

撮影中にモデルの肩口から下着が見えていたので、気を利かせて素早く直したところ、撮影隊の一人で、一部始終を見ていたパリ在住の日本人スタイリストに「あなた、スタイリストになりなさい」と声をかけられたのだ。英恵さんはすぐにそのスタイリストに連絡を取り、アシスタントの仕事を得た。

さあ、これでようやくスタイリストとしてのスタートラインについた……と思ったら、間もなくして躓いた。そのスタイリストと考え方が合わず、働き始めてわずか半年後、またしても「クビ」になってしまったのだ。

仕事を始めてから短期間で2度もクビになると凹んでしまいそうなものだが、行き場を失った時、持つべきものは友人である。ドイツ系ベトナム人の友人が再び手を差し伸べてくれた。別のプロダクションを紹介してくれて、もう一度、アシスタントをすることになった。

最初に請けた仕事はフランスの大企業の広告撮影で、ロンドンに出張。そこで彼女はまた、大失敗してしまう。

「フォトグラファーがきれいにカバンを積み上げて撮影していたんですよ。それがひと段落した時に昼休みに入ったので、もう終わったんだと思って、キレイに片付けたんです。そしたら、お昼から戻ってきたフォトグラファーが怒ってしまって。なんで? と思ったら、午前中にある程度撮影した後、午後からライティングや配置を変えて撮り直そうとしていたらしいです。それを私が全部片付けちゃったら、イチから撮り直しになりました」

当初の予定では、この撮影の後、同じプロダクションから別のブランドの撮影のオファーが3、4本入っていたが、すべてキャンセル。その後も一切、仕事の話がこなくなった。これもクビのようなものだろう。

運命を変えた視点の切り替え

ここでもう一度、ドイツ系ベトナム人の友人が登場する。彼は、失敗に落ち込む彼女にまた別の会社を紹介した。それが縁で、今度はフランスの有名ファッション誌『Numéro PARIS』創立メンバーのフランクさんというスタイリストに弟子入りした。

「フランクはすごく素敵な方で、当時は『Numéro』以外にも、エルメス、ゲラン、カルティエとかの大きな広告キャンペーンを手がけていました。そういう大きな仕事にもぜんぶ連れて行ってもらい、現場でアシスタントの仕事について教わりました」

良いボスに恵まれた英恵さんは、精力的に働いた。だがしかし、1年もせずにまたクビになる。今度は、語学力が問題だった。

「服を借りる時、そのブランドのプレス(広報)に連絡するんですけど、フランスのブランドだと英語が通じないところもあるんです。私は、英語は得意だったけどフランス語が苦手だったので、ボスから『フランス人をアシスタントにつけたい』と言われました」

また、語学の壁にぶち当たった。しかし、フランクさんとの関係は良好で、辞めた後、当時彼が所属していた事務所から、VOGUE ITALIAの撮影の現地アシスタントとで入らないと声をかけてもらった。その時、担当していたスタイリストに気に入られ、この後1年ほど撮影チームとして参加。これがきっかけで、VOGUE FRANCEの撮影にもかかわるようになる。

フランス語力が弱点ということを理解していた英恵さんは、グローバルの雑誌であれば英語でも十分対応できる、英語力を活かせる仕事をしようと視点を切り替えた。それが、運命を変えた。

ある社長からの電話

パリには、ロンドン、ニューヨーク、ミラノ、東京など国外から頻繁に撮影隊が来る。そのスタイリストは、勝手がわかる現地のアシスタントが何人か必要だ。その場合、会話は基本的に英語になるし、プレスに連絡するのは、フランス語が話せる人に任せればいい。

フランクさんが所属するプロダクションに「ローカルアシスタントが必要なときは連絡ください」とお願いすると、少しずつ仕事が増えていった。フランクさんのもとでアシスタントのイロハを学んでいたし、英語中心の仕事だったから、どの仕事もうまくいった。

そうしてスタイリストとして手ごたえをつかみ始めた頃、電話がかかってきた。

「ハナエ、元気? そろそろ準備できた?」

相手は、英恵さんがカバンを片付けてフォトグラファーを激怒させたロンドンの仕事を手配したプロダクションの社長だった。よくわからないまま、「(準備は)できましたよ」と答えると、社長は言った。

「じゃあ、ちょっと仕事をひとつやってもらいたいんだけど」

こういう時、あなたはどうする?英恵さんはふたつ返事で仕事を受け、その仕事も成功させた。その仕事ぶりを見て、プロダクションの社長はこう言ったそうだ。

「ロンドンの仕事では、何も知らなかったから結果的に悪いことになっちゃったし、僕の人生の中で最低のアシスタントだった(笑)。でも、片付け方と仕事の細かさを見て、ノウハウさえ身に着ければ、すごく良い仕事をするんじゃないかと思ってたんだよ」

この後、社長からLOUIS VUITTONの広告の仕事を紹介され、以降5年間、撮影チームの一員として携わることになった。

「準備ができたら電話をくれ」

さらなる転機は、2007年に訪れた。その年の初め、モロッコでのアシスタントの仕事が入った。そこで出会ったフォトグラファー2人組が、最終日、彼女に電話番号を渡して、「君はもうアシスタントは十分だから、独立してスタイリストになれ。僕らはいつでもパリにいるから、準備ができたら電話をくれ」と言ったのだ。

スタイリストの仕事はカメラマンと常に一緒のため、信頼関係ができればカメラマンから仕事の話が来ることも多い。そこからの決断に迷いはなかった。

「パリに帰って2日後には、準備できたよって電話しました。実は何も準備できてなかったけど、準備ができるのを待っていたら、何も始まらないし。彼らからも『早いね』って言われました(笑)」

スタイリストの最も重要な仕事のひとつは、クライアントやアートディレクター(AD)の意向を汲み、「柔らかに」とか「クールに」などのフワッとした言葉の意図を探りながら、トレンドも反映した衣装を提案すること。

そこでADやクライアントに「そうそう、こんな感じ!」と言ってもらうところから、本格的に仕事が動き始める。「準備ができた」とは、そういうことが当たり前にできるということだ。逆に、「なんか違うんだよな」とガッカリさせることが続くと、仕事を失う。

一度、コーディネーターを始めた時に仕事を安請け合いして手痛い思いをしている英恵さんは、同じ過ちを繰り返さなかった。このチャンスを逃さないために、仕事のオファーが来ると、まずはクライアントとADの過去の作品をチェックした。それで好みや傾向を把握した後、依頼のイメージを固めるために、SNSなどを駆使して数千枚から1万枚の写真を見る。そのなかから「これだ!」と思う数枚を最終的に提案した。

これでOKをもらえば、現場での仕事はアシスタントとして十分に学んでいたし、細かな気遣いには自信があったから、怯むことはなかった。常に気を張り、耳をそばだて、勘を働かせて、機敏に行動すること。

嫌いなところがないから続けられる

このアプローチで仕事に臨むと、次々と仕事が舞い込んできた。フランス、ドイツ、スペイン、イタリアの雑誌のスタイリングをしたり、有名ブランドの仕事も手掛けるようになった。彼女の努力とセンスがついに認められたのだ。

それにしても、デザイナー、モデリスト、コーディネーターは驚くほどあっさりと見切りをつけたのに、スタイリストはアシスタント時代に3度もクビになりながら、食い下がり続けた。それはなぜなのか?

「一度も順調と思ったことがないような日々だったけど、日本に帰ろうとは思いませんでした。両親は心から応援してくれて、何度も助けてもらったから、やっぱりダメでしたって帰国するにはまだ早いと思ったんですよ。スタイリストの仕事は、これが天職だわ、大好きだわとは思わないけど、一度も嫌いだと思わなかった。嫌いなところがないから、この仕事なら続けられるかもと思ったんです」

スタイリストとして独り立ちし、パリを拠点に、飛び回るように働いていた英恵さん。しかしいつの頃からか、帰国を考えるようになった。学生時代からパリにいたので、日本の仕事に興味があったこともあるが、一番の理由は英恵さんらしいものだった。

「パリは寒すぎたんです。パリって年々夏が短くなっていて、春も秋もほとんどないから、1年の8、9カ月は冬みたいな感じなんですよ。それが嫌になっちゃった(笑)」

2002年3月、寒くてどんよりしたパリを見て「花の都とはどこ?」と呟いた女の子は、11年後の2013年10月、相変わらず冷え冷えとしたパリに別れを告げて、東京に向かった。

日本とパリの違い

日本で再始動するにあたって最初にとった行動は、仲の良い日本のスタイリストへの電話だった。同じスタイリストといっても、日本とフランスでは勝手が違う。服を借りるにはどこに連絡したらいいの? という基本的なことからひと通り教えてもらった。

その後、スタイリストやフォトグラファー、ヘアメイクなどファッション業界で活躍する人たちが大勢所属しているエージェントに登録した。そうすると、エージェントが営業して、英恵さんにマッチしそうな仕事を振ってくれるというメリットがある。

日本での実績はゼロながら、パリでのキャリアは高く評価されていたから、すぐにオファーが届くようになった。ここまではとんとん拍子だったが、現場になじむのは苦労した。

パリでは、どんな現場でも自分の意見やアイデアを積極的に伝えることが求められた。それをしないと、そこにいる意味がない、イコール価値がないと判断される。それはアートディレクターやフォトグラファー、ヘアメイクも同様で、「みんなで協力して、いい作品を作ろう」という文化だった。

英恵さんは同じように、「初めまして」の現場で、どんどん発言した。その後の展開は、想像の通り。「この人、何様?」という冷めた空気が流れ、「海外かぶれの残念な人」という扱いを受けることも少なくなかった。

「事務所のマネージャーとか社長が、何回か菓子折りを持ってクライアントに謝りにいきました」というから、風当たりは相当強かったはずだ。

友人からもらった強烈な言葉

ここから、葛藤が始まった。私はチームの一員として、いい作品を作るために良かれと思って意見を伝えてきた。でも、空気を読んで、和を乱さず、指示されたことを忠実に表現するのが好ましいのなら、それに合わせるべきなのか。いやいや、そうしてしまったら自分がパリで学んできたことは活かせないし、自分がその仕事をする意味を見出せない……。

事務所からは「もうちょっとチャンネル合わせて」と言われ、モヤモヤした気持ちを抱えながら1年、2年と経ち、「私、なんでスタイリストやってるんだっけ?」という疑問がわいた。その答えを、見出せなくなっていた。

「……もう辞めようかな」

そう思い始めた時期に、友人から言われた。

「今、こっち(日本)に合わせて仕事してるでしょ? 今のスタイリング嫌い」

胸にグサッと刺さる強烈な一言で目が覚めた英恵さんは、自分のスタイルを貫くことにした。すると、変化が起きた。そのスタイルを煙たがる人は離れていったが、「いいね!」と評価してくれる人が集まってきたのだ。

日本のファッション業界には、海外で学んできた人も多い。恐らく、それぞれが多かれ少なかれ、英恵さんと同じような葛藤を抱えながら、日本で仕事を続けている。そのなかで、はっきりと自分のやり方を示し、それを曲げなかった英恵さんに胸のうちで拍手を贈る人も少なくなかったのだろう。

英恵さん自身も、ただパリ時代のやり方を続けたわけではない。これまで通り意見はするが、タイミングを意識するようにした。なにかを提案するにしても、直球を投げるのではなく、「その場のみんながハッピーになる」ように言葉を選んだ。すると、仕事がうまくまわり始めた。

動画時代に変化する仕事の中身

日本に戻って4年目、ようやくチューニングが合い始めた英恵さんは再び独立した。日本での実績も十分だったし、英語を流ちょうに話し、フランス語も理解するスタイリストは日本でそう多くないから、途切れることなくオファーが届くようになった。特に、外資系の企業に重宝されているのは、冒頭に記したクライアントを見てもわかるだろう。

海外での仕事も多く、昨年1年だけで10回、国際線に乗った。例えば、中国の企業がわざわざ日本にいる英恵さんを指名して、アメリカで撮影することもあるという。もちろん中国にもスタイリストはいるが、彼女ならではのキャリアとセンスを評価してのことだ。

「君はフランスですべてを学んで、ヨーロッパを舞台に仕事をして、それを日本に持ち帰った。だから、ミックス感が人と違う」

これは、英恵さんが中国の案件のプロデューサーから言われた言葉だ。

最近は、広告に動画を使うクライアントが増えて、仕事の内容も変化しているという。

「写真は正面しか写らないし動かないけど、映像は360度見えるし、モデルが動くでしょ。だから、スカートの動きが欲しいよね、とか、ここでこう透けたら綺麗だね、とか、写真にはないポイントが出てくるんだよね」

動画のなかで映える衣装を、いかに選ぶか。数千枚から1万枚の写真を見て提案する衣装を決めるスタイルは今も変わらないが、写真だけの時とは異なる想像力を問われるようになった今、英恵さんにとってはそれが「すごく面白い!」そうだ。

『クィア・アイ in Japan!』

持ち前のセンスだけでなく、動画の仕事を楽しんでいるその感覚が伝わったのかもしれない。昨年かかわった最も大きな仕事は、動画配信サービス・ネットフリックスの人気番組『クィア・アイ』の日本編『クィア・アイ in Japan!』の撮影だった。

ファッション、料理、美容、インテリア、カルチャーという5つの分野のプロフェッショナルのゲイ5人が、「自分を変えたい」と悩む男女を変えていくドキュメンタリーで、映画のアカデミー賞に相当するアワード、エミー賞で2018年に3冠、昨年に4冠を記録し、世界でも人気を博している。

『クィア・アイ』初の日本進出に際して、現地スタッフを探していたエージェントから英恵さんに声がかかった。そこから書類審査、スカイプ面接を経て、正式に参加が決まった。その仕事の詳細は番組の都合上明かせないが、ファッションを担当しているタン・フランスさんのサポートをするのが役割だった。

「45日間拘束で、4日に1度の休日があったけど、基本的には朝から晩までずーっと一緒に行動していました。でもみんなすごくいい人たちで、それが苦じゃなかった。雑誌とかCMの撮影ではあり得ない長さだったから、最後はファミリー感もあって楽しかったな」

「神様ありがとう」

七転びどころか、八転び、九転びして立ち上がってきたこれまでの歩みを振り返った時、英恵さんがターニングポイントに挙げたのは、意外にも19歳の時の出来事だった。

「1浪してたのに、大学受験の日に急に思い立って留学するって決めてカナダに行ったでしょ。英語もそうだけど、もしそうしてなかったら、ぜんぜん違う人生だったと思う。神様ありがとうって思うよね」

思えば、パリに行く前から、「これ!」と感じたら一直線に行動してきた。そのせいで誤解を招くこともあっただろうし、日本でも、フランスでも、何度もクビになったり、失敗をして仕事が来なくなったりという挫折を経験してきた。そのたびに、誰かが手を差し伸べてきたのは、どんな時も自分の気持ちに忠実な彼女の姿勢に共感してのことだろう。

これから、どこに向かうのか。もしかするとまた大胆な方向転換をするのかもしれない。その先が見えなくても、英恵さんは自分の感覚を信じて、また突き進んでいく。

ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。著書「農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦 (文春新書)

 

過去記事
世界的ブランドを渡り歩く、大森美希。N.Y在住ファッションデザイナーは元教員
路上から世界に飛び出した靴磨き職人、長谷川裕也さん。 業界のイメージを変えた変革者の意外な素顔

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