ジョエル・ロブションの言葉を胸に。フレンチの世界大会を制したシェフ、関谷健一朗

書き手 川内 イオ

写真 佐々木 孝憲

ジョエル・ロブションの言葉を胸に。フレンチの世界大会を制したシェフ、関谷健一朗

師匠の言葉を胸に刻んで

2018年11月19日、パリ。この日、開催された「第52回 ル・テタンジェ国際料理賞コンクール インターナショナル」で優勝者として名前を呼ばれたのは、日本代表として出場した関谷健一朗さんだった。世界的なシャンパーニュメゾン「テタンジェ社」が1967年に創設した、39歳以下のシェフが腕を競うフランス料理の世界的な大会のひとつで、日本人の優勝は1984年以来ふたり目だった。

表彰式の時、関谷さんはコックコートの下からある人の写真を取り出して掲げた。それは、ミシュランの星を世界一獲得しているフランス料理界の巨匠で、決勝戦のおよそ3カ月前に亡くなったジョエル・ロブションさんの写真だった。2006年からパリの「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」のスーシェフ(副料理長)、2010年から六本木の同店でシェフとして働いてきた関谷さんにとって、ロブションさんはボスであり、師匠だった。



長らくロブショングループのエグゼクティブチーフを務めてきたロブションさんの右腕、エリック・ブシュノワールさんは、表彰式の会場で大粒の涙をボロボロとこぼしていた。関谷さんは、エリックさんの涙を見て感極まる……というよりもびっくりしていた。

「エリックシェフを知る人なら誰もが頷くと思いますけど、人前で泣くような人じゃないんです。ロブションさんのお別れのセレモニーでも、一番長くそばにいた人として最後にメッセージを読みあげたんですが、凛とした姿を見せていましたから。そのエリックシェフがボロボロと泣いていたのを見て驚いて、自分が泣くタイミングを失いました(笑)」

本当はこの時、関谷さんにもこみ上げる思いがあった。この大会の日本予選に出場すると決めた時、第4回大会の優勝者だったロブションさんに相談すると、師匠はこう言った。

「もし勝てないんだったら出るな」

それから間もなくして、ロブションさんは亡くなった。出るからには勝て、ではなく、勝てないなら出るな――。関谷さんはこの言葉を胸に刻んで、大会に挑んだのだ。

「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」シェフ

関谷健一朗

20代前半に渡仏。ジョエル・ロブション氏に認められ、26歳という若さで副料理長に抜擢。六本木ヒルズの『L'ATELIER de Joël Robuchon』のシェフとして日本に凱旋。「第52回 <ル・テタンジェ>国際料理賞コンクール インターナショナル(パリ)」にて、日本人シェフとして34年ぶりの世界一に輝く。

大学付属校から調理師の道へ

関谷さんが料理人を志したのは高校生の時。大学付属の高校に通っていたにも関わらず、調理の専門学校に進学した。

「学校の敷地内に大学生もいたんですが、魅力的に思えなかった。僕はもともと勉強も好きじゃなかったし、大学でやりたいことも思い浮かばなくて、大学はちょっと違うなと思いました。でも勉強しないで生きてくことはできないので、自分が興味あることだったらなんとかできるかなって思ったんです」

関谷さんは、料理上手の母親の手料理を食べて育ち、料理を作っている姿が自然に目に入る環境で育った。中学生の頃にはキッチンに立って、母の手さばきを間近で見学したこともある。料理への関心は高校生になっても衰えず、進路を考える時、自分はなにをやりたいのかを考えて一番ピンときたのが専門学校への進学だった。

当時は専門学校で1年勉強したら、調理師免許を取得できた。あっという間の1年後、専門学校の先生の紹介で千葉の舞浜にあるホテルの調理場に就職した。婚礼や宴会で提供する料理をつくるのが仕事で、決められた時間内で一度にたくさんの品数と量を調理しなくてはならない。最初の1年はそのペースに合わせて料理をするだけで精いっぱいだったが、慣れてくると物足りなさを感じるようになった。

「ホテルの立地上、近くの大型アミューズメントパークに行くお客さんが多いんです。そういう環境だと、ホテルの食事はそれほど重要視されない。それが残念でした。それに、ずっと調理場にいるのでお客さまの顔が見えなくて、自分が作ったものが喜ばれているのか実感が湧かなかった。若かったこともあって、機械的な仕事のように感じていました」

初めてのフランス

2年目、関谷さんは10日間の休みを取り、専門学校時代から興味を持っていたフランスへ向かった。美食の町として知られるパリとリヨンで、観光もせずに食べ歩いた。

リヨン近郊にある三ツ星レストラン「ポール・ボキューズ」では、世界的なカリスマシェフ、ポール・ボキューズさんに会うこともできた。ボキューズさんはフランス語も英語もままならない関谷さんを厨房に招き入れ、見学させてくれたそうだ。初めてのフランスはあまりに刺激が多く、滞在中に「今度はフランスに働きにこよう」と心に決めた。

しかし、当時はインターネットもそれほど普及しておらず、フランスで料理の修業をしたくてもどうしたらいいのかわからない。そこで情報を得る目的もあって、職場でも「フランスに行きたいんです」と話していたが、内心は不安でいっぱいだったという。

「周りの人からも遠回しにお前は無理だろうという目で見られているように感じました。自信なんてまるでなかったですね」

それでも、なかにはフランスで修業した経験のある知り合いを紹介してくれる人もいた。そういう人たちから励まされ、少しずつ現地の情報を得て、糸口をつかんでいった。

恐れることはなにもない

フランス旅行から戻って1年半後、心と資金の準備が整って退職。それから東京のお茶の水にある語学学校で、3カ月の特訓コースに通った。申し込んだ時、学校側から「特訓コースはレベルが高くてついていけなくなるからやめたほうがいい」と釘を刺されたが、それを無視して受講するほどフランスへの想いは昂っていた。

学校は月・水・金の週3日、朝から夕方まで授業があって、予習復習をしないとすぐについていけなくなるレベルだった。クラスには大学でフランス文学を学んだ人、趣味の域を超えてフランス語の習得に情熱を燃やしている人などがいて、全員が本気。フランス語の知識ほぼゼロだった関谷さんは、必死に授業についていった。それでもあまりにハードで、2カ月で心が折れて、最後の1カ月は登校拒否状態になってしまった。

しかし2002年の夏、フランスに渡ってからすぐに、この特訓コースに通ってよかったと実感することになる。なんのコネもツテもなかったので、フランスの語学学校に通い始めて1カ月もしないうちに、働いてみたい店に履歴書や手紙を送り、電話をかけた。そうして間もなくあるレストランで仕事を得るのだが、仕事を得るまでのやり取りも、職場での会話もある程度理解できたのだ。

フランスのレストランの厨房は、日本のホテルの調理場とはなにもかもが違った。関谷さんはすべてを吸収しようと腹をくくった。

「若気の至りかもしれないけど、ここまできたんだから恐れることはなにもないと思っていました。フランス料理のシェフを志す者にとって、フランス以上の場所はありません。フランスに行った時は21歳で、たいしたことはできなかったから、わからないことはすべて周りの人に聞いて教えてもらっていました。楽しいというより、とにかく必死でしたね」

運命の決断

パリには日本人が多く住んでいるが、ほかの日本人と一緒に過ごすこともあまりなかった。いかに腕を上げるか。それだけに集中していたのだ。

その真剣さとひたむきな努力によって、関谷さんの評価も高まっていったのだろう。ひとつの店である程度修行をすると、より良い条件でほかの店に移った。そのなかには星付きの店もあった。現地で長く働くうえでは欠かせない労働ビザも、店が取得してくれた。

迎えた4年目、パリにある2つ星レストラン「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」(当時は1つ星)で仕事を得る。ほかに5つほど、それぞれ名を知られた人気店から採用通知をもらっているなかで選んだのが、この職場だった。

「フランスに来た当初は、ロブションさんのお店やロブションの弟子と言われるような人たちのところでは働きたいとは思っていませんでした。東京にロブションの店があるから、ロブションの料理を学びたいならそこで働けばいいと思っていたんです」

しかし、フランスで働いているうちに気が変わった。

「いろいろなところで働いたり、食べたりしてきたなかで、僕が作ってみたい、食べてみたいと思う料理がロブションの料理の感覚と近かった。好きな料理が似てたんです」

給料や地位など条件面ではなく、感覚に従ったこの決断が、関谷さんの運命を変えた。

ホタテタワーとの格闘

ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブションは、星付きレストランにありがちなかしこまった店ではない。店内はオープンキッチンで、シェフやスタッフが料理をする様子を眺めて楽しむことができるロングカウンターが特徴だ。

ロブションさんが提唱する「コンビビアリテ(懇親性)」を表現した店で、カウンター越しにシェフやサービススタッフと会話を楽しむこともできる。雰囲気はカジュアルなのだが、料理人に求められるレベルはそれまでの3年間、働いた店とは比べ物にならないほど高かった。

「お客様の数が桁違いに多いので、普通の店の何日分に相当する食材が1日でなくなります。だからスピード感しかり、内容しかり、量しかり、ほかとは次元が違いましたね。一緒に働いていたスタッフが店を変える時は三つ星のレストランに行く人が多かったんですけど、しばらくして顔を合わせると、物足りないって言ってる人も多かったです」

当時を振り返り、関谷さんは苦笑した。

「僕は魚の部門シェフ(魚料理の責任者)として採用されたので、朝、魚介類の処理をすることが多かったんですけどね。ホタテ貝がぎっしり詰まった木箱が天井まで積んであったりするんです。それはその日に使うもので、開店前に処理をしなくはいけません」

フランスのレストランの天井は住居よりはるかに高く、2メートルは優に超える。ホタテタワーを目の前にして、関谷さんは気を引き締めた。

1年でスーシェフに抜擢

この仕事量とスピード感に圧倒されて店を去るスタッフは大勢いるそうだが、数カ月耐えて、自分のペースをつかんだスタッフは明らかに進化する。関谷さんは後者だった。

「忙しいなかでもゆとりは持ちたかったので、決められた時間内でいかに効率よくやるかを考えていたし、それを部下にも求めました。だから入店してから何か月か経った後は、営業前に余裕を持って準備を終えて、仲間とコーヒー飲みながらくつろいでいましたね」

その仕事ぶりは、腕利きの料理人たちの間でも際立っていたに違いない。入店から1年後、スーシェフ(副料理長)に抜擢された。フランスにある、フランス料理の店で、しかも腕に自信がある料理人しかいないなか、日本人がスーシェフを務める。日本にいる日本人では想像もつかないプレッシャーがあるだろう。関谷さんはどういう気構えで仕事と向き合っていたのだろうか。

「技術職なので、圧倒的に見せるしかないんですよね。こんなこともできないのかと言葉にはしませんが、日々の仕事のなかでいつも実力の差を見せて、この人には敵わないなと思わせる。足元をすくわれないためにはそうすることが一番手っ取り早いし、逆に見せる何かがないと信頼を勝ち取るのは難しいですよね」

リーダー論とか、コミュニケーション論の前に、まずは自分の腕を認めさせる。プロスポーツの世界のような厳しさだ。もちろん、星付きレストランにくるお客さんの肥えた舌も満足させなくてはならない。決して気を抜くことができない日々だった。

世界中に自分の店を持つロブションさんは多忙な人だったから、「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」に顔を出すことは少なかったが、関谷さんには今でもふとした瞬間に蘇る思い出がある。

ラトリエの2階にある事務所でひとりデスクワークをしていたある日のこと。ほかに誰もいないはずなのに、背後から肩をトントンと叩かれた。集中していたので、仕事をしながら「なに?」と返事をしたら、また肩を叩いてくる。

スタッフがふざけているのかと思い、しつこいなと少しいら立って振り向いたら、こっそりと階段をのぼってきたロブションさんが立っていた。そして、笑顔で「なんだ、お前はそういう態度をとるのか?」

「世界一星を持つシェフ」の意外な素顔。お茶目なところもあるんですね、というと、関谷さんは懐かしそうに「そうですね」と頷いた。

六本木での苦悩と解放

2010年9月、関谷さんが日本に帰国する決断をしたのは、ロブションさんから「東京の店でシェフをやらないか」と声をかけられたのがきっかけだった。

「実は、そろそろラトリエを辞めようかなと思っていたんです。5年弱働いたし、二番手にもなったし、ステップアップしたいなと。それで、9年弱フランスでやってきた成果を出せる場所を探し始めていた時期だったので、ロブションさんからいい話をもらって日本に帰ることにしました」

若干30歳にして六本木の「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」のシェフに就任した関谷さん。1999年、舞浜のホテルの調理場で働き始めてから10年が経っていた。

素人目線では、言葉も、文化も違う国から日本に戻ってきたのだから仕事もしやすくなるだろうと思ってしまうが、関谷さんの前には新たな壁がそびえ立っていた。

フランスとの日本では食材の質が違うので、同じ食材で同じ料理をつくってもフランス時代とは異なる味になる。そのうえ、スタッフは関谷さんが表現したい味を知らないので、できあった料理は関谷さんが思い描くものとは程遠いものだった。スタッフと味のイメージを共有するために関谷さんが手本を見せても、その手本の味が理想と違うのだから、関谷さんも途方に暮れるしかなかった。

それでも、お店は年中無休でオープンする。「どうしたら自分の味を出せるんだ……」という悩みと葛藤のなか、毎日キッチンに立って料理をつくり続けるしかなかった。本当に納得できるものが出せるようになるまで、なんと2、3年かかったそうだ。

「思い出の味じゃないですけど、記憶のなかの味なので、多少美化していたところもあったと思うんです。でも日本で仕事をするようになって、いい意味で頭のなかのフランス時代の味が薄れていきました。それで、フランスの味を再現するんじゃなくて、日本の食材をいかに美味しくするかということに切り替えることができたんだと思います」

まさかの課題

そうしてフランス時代よりも味に自信を持てるようになった関谷さんは、2018年、39歳以下のシェフを対象にしたフランス料理の世界的な大会「ル・テタンジェ国際料理賞コンクール」に参加することを決める。

この大会で、関谷さんは何度もロブションさんを思い浮かべることになる。出場することを決めた時に、「もし勝てないんだったら出るな」と言われたことは冒頭に記した。この一言で、関谷さんにとって絶対に負けられない挑戦になった。

その後の日本予選、書類審査のために料理の写真の撮影を予定していた前日に、ロブションさんが亡くなった。その訃報を受けた関谷さんは「こんなことしてる場合じゃない。やめようかな」と思ったそうだ。

しかし思いとどまり、撮影を決行。日本語とフランス語でレシピを仕上げて写真とともに送付し、その日のうちにお別れのセレモニーが開かれるフランスに向かった。この時、改めて「(大会に)出るからには絶対に勝つ」という思いを強くしたという。

10月の日本予選で優勝し、迎えた世界大会。審査が行われる2週間前に発表されたふたつの課題を見て、関谷はドキッとした。ひとつはロブションさんの十八番だった卵料理で、もうひとつはロブションさんのスペシャリテにもある「ターバン仕立て」だった。

「ロブションさんはたぶん誰よりも卵料理のレシピを持っているんですよ。審査員はすごく有名なシェフや歴代の優勝者なので、もし僕がロブションさんの卵料理をつくったら、僕の創作じゃないとすぐにわかるだろうし、ロブションさんの弟子として絶対に下手なものは作れない。ターバン仕立てもロブションさんの得意な料理のひとつだったから、え、ターバンなのか! と思いましたね。ロブションさんを知っている人からは、お手の物でしょ、と言われましたけど、僕は有利なのか不利なのかわからないと思っていました」

その日一番の笑顔

大会当日までの2週間は、課題の試作に明け暮れた。その間、ロブションさんの唯一無二の右腕であるエリックさんが何度もアドバイスをくれた。エリックさんもきっと、ふたつの課題を見てロブションさんとの不思議な縁を感じていただろう。

大会当日、ふたりの頭にあったのは「優勝」の二文字だけだった。その強烈な想いが、ロブションさんに捧げるトロフィーをもたらした。どんな時も冷静だったエリックさんの涙には、はるか遠くから見守っていたであろうロブションさんも驚いたに違いない。

「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」には、関谷さんが持ち帰ったトロフィーが飾られている。取材の日、関谷さんがトロフィーの土台の部分を指さして、「ちょっと見てください」と言った。円形の土台には金色のプレートがはめ込まれていて、歴代の優勝者の名前がぐるりと刻まれている。

「僕が参加した52回大会で、ちょうどプレートが一周したんです。ここに僕の名前があるんですけどね、すぐ隣りにロブションの名前があるんですよ、ほらここに」

自分とロブションさんの名前の位置を教えてくれた関谷さんは、その日一番の笑顔を浮かべていた。

ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。

過去記事
世界的ブランドを渡り歩く、大森美希。N.Y在住ファッションデザイナーは元教員

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