世界的ブランドを渡り歩く、大森美希。N.Y在住ファッションデザイナーは元教員

書き手 川内 イオ

写真 忠地七緒

世界的ブランドを渡り歩く、大森美希。N.Y在住ファッションデザイナーは元教員

お住まいはチェルシー

ニューヨークのマンハッタン。

経済大国アメリカを象徴するビジネスの中心地であり、一大観光地でもあるこのエリアのなかでも、ひときわ多くの人を惹きつけるエリアがある。そこは、チェルシー。

西側がハドソン川に面したこの地域はかつて倉庫が立ち並び、港湾労働者が多く住むエリアだった。しかし、現在はショップやギャラリー、レストランが軒を連ねるニューヨーク屈指の人気スポットになっている。ファッションデザイナー、大森美希さんはチェルシーに住んでもう3年半になる。

「オフィスに歩いて行けるから」

バッグで有名なブランド「COACH」で、レディースファッション部門のシニアディレクターを務める彼女はサラリとそういった。

大森さんと僕は2009年4月にパリで出会った。実際に会ってお話したのは数えるほどだけど、フェイスブックでつながっているから互いの近況は知っているし、たまにメッセージのやり取りもしていた。肩こりがひどいというので、ニューヨーク在住の凄腕のトレーナーを紹介したこともある。そういう関係性もあって、僕は読者の方も気になるであろうことをズバリと聞いた。

「家賃ってどれぐらいするんですか?」



その金額を聞いた瞬間、僕は思わず「えー!!」と驚きの声を上げてしまった。詳しく書くことはできないけれど、間違いなくファッション業界を目指す若者に夢を与える金額だ。

ただし、彼女が特別にリッチな生活を送っているわけではない。そもそもニューヨークの家賃の相場自体が高いこともあるし、上司も、最近職場を離れたというメンズの元シニアディレクターもチェルシーに住んでいる。なぜなら、それだけ忙しいから。

「普段は9時とか10時に始業なんだけど、日によっては8時とか8時半から働き始めて、オフィスを出るのは夜中の1時になることもあって。それからサブウェイとかタクシーに乗って帰るなんて無理だから、みんな会社の近くに住んでいるんですよ。若い子たちだって、1000ドル以上払ってブルックリンあたりでルームシェアをしていますから」

ファッションデザイナー

大森美希

栃木県宇都宮市出身。文化服装学院を卒業後、教員に。その後フランスへ渡り、バレンシアガ、ニナリッチなど有名ブランドを渡り歩く。現在はCOACHのレディースファッション・シニアディレクターとしてNYで暮らす。

レディースファッション部門のトップ

大森さんの大きな仕事は、年に2回開催される春夏と秋冬のコレクション(ファッションショー)と、同じく年2回発表されるプレコレクションの合計4コレクションに向けて、レディースウェアの新しいデザインを考えること。昨年9月にニューヨークで行われた「COACH 2019年春夏コレクション」では、ランウェイにブランドアンバサダーの水原希子さんが登場して話題になったけど、大森さんのインスタグラムにも水原さんとのツーショットが載っていた。

ちなみに、大森さんは9人の部下を抱えるレディースウェア部門のトップ。その上にレディースとメンズのウェアを統括する上司がいて、さらにその上にはバッグ、靴、店舗まですべてを統括するエグゼクティブクリエティブディレクターがいる。でもCOACHのレディースファッションに関しては、大森さんのアイデアや想像力がベースになっているのだ。世界中にあるCOACHのブティックには、大森さんが描いたイメージが服となって並んでいる。

ニューヨークの一等地に住み、グローバルブランドの中枢でチームを率いる。こう書くと、どれだけ才能豊かでスマートな女性なのだろうと思うかもしれない。でも、彼女はエリート街道とは程遠い苦学生だったし、コネなど皆無、自らの手で道を切り拓いてきた。その指先には、針やハサミの傷跡が残る。

片道2時間半かけて通学

地元宇都宮の高校時代、「洋服が好き」というシンプルな理由でファッションデザイナーになりたいと思うようになった大森さん。美大の受験に失敗して1年間浪人した後、1991年の春、文化服装学院ファッション工科アパレルデザイン科に入学した。

浪人時代も、専門学校に入ってからも、学費は自力でねん出した。東京でひとり暮らしする余裕などなかったから、宇都宮から2時間半かけて通学する日々。放課後、宇都宮に戻ってから毎日のようにアルバイトをした。ファッション系の学校には、自分なりのおしゃれを追求する学生がたくさんいる。そのなかで、服にお金をかけられない大森さんはいつもジーンズにTシャツやセーターだった。

それでも1年半で学費が尽き、やむなく休学。1年間、アルバイトをしてもう一度学費を貯めてから復学した。学校は3年制だったから、同級生は先に卒業し、大森さんは1学年下の後輩とともに学ぶことになった。

就職活動もうまくいかなかった。プライドだけは高く、「あんまり変な会社のデザイナーにはなりたくない」と選り好みをしていたら、受けた会社はすべて落選。行き場所を失った彼女に、「宇都宮なら近いからいいんじゃない?」と学校の先生が勧めたのは、仙台にある服飾専門学校の教員だった。

当時の彼女は胸のうちで「近くない」と突っ込んだが、教師になる道を選んだ。奇遇にも、ファッションデザイナーを夢見る前は「教師になりたい」と思っていたからだ。

「就活していた時に、もし好きなブランドに就職できなかったら、ほかの服飾関係の仕事をして、ファッションに関わりながら、いつかリベンジしたようと思ったんです。仙台に悪いイメージもなかったし、小さい時に先生になりたいと思っていたこともあったから、これは運命かなと思って。先生になるのに抵抗はなかったですね」

期限を決めてパリへ

学費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れていた学生時代は、学校に通うだけで精いっぱいでファッションデザインのコンテストに挑戦できなかった。それから一転、学校に就職すると自分の時間ができた。そこで彼女は学生時代に発散できなかった表現欲求を満たすように、どんどんコンテストに応募した。

すると、ヨコハマファッションデザインコンテストの「ゴールド神奈川県知事賞」(1995)を皮切りに、さまざまな賞を受賞。1999年には「ATFアジア新人デザイナーコンテスト特別賞」も獲得した。こうして自信を深めた大森さんは、次第に「パリに行きたい」と思うようになった。

「まだ学生の時、お金がなくて休学している時に学校に行ったら、先生が『うちに戻ってこないで、そのお金でニューヨークとかパリに行ったらいいのに』と言ったんです。その言葉が頭に残っていたので、ある日、仙台で英語とフランス語の学校を探したんです。そしたらフランス語の学校のほうが安かったんですよ(笑)。それでクラスに通い始めたら、パリに住んでた人もけっこういたし、先生たちからいろいろ話も聞けたんで、なんとなとく、少しずつ気持ちがパリに傾いたんです」

彼女は98年12月、エールフランスとフランスのオートクチュール組合学校が主催するコンテスト、Concours International des Jeunes Créateurs de Modeで日本代表に選ばれ、パリに招待されている。それも、パリを意識したひとつのきっかけとなった。

2000年、学校を退職。その年の8月、「3年滞在してデザイナーになれなかったら日本に帰ろう」と心に決めてパリに渡った。

バレンシアガに猛烈アプローチ

翌月から服飾専門学校ステュディオ ベルソーに通い始めた。イチから服飾の勉強をし直すというよりも、学校を通してスタージュ(インターン)をするためだった。学校は3年制だが、自分で決めた期限は3年間。学校でのんびりしている暇はない。慣れないフランス語も1年である程度話せるようになると、大森さんは学校に飛び級を直談判。日本で5年間、教師をしていたことが考慮されて、3年生に編入が認められた。

3年生になると、いよいよスタージュが始まる。2001年の10月から翌年6月まで4社でスタージュを経験しながらも、彼女は「天才デザイナー」と評されるニコラ・ジェスキエールが率いていたBALENCIAGA(バレンシアガ)でスタージュするために、手を尽くしていた。

「最初、同じ学校の友人がバレンシアガでスタージュをしていて、私に声をかけてくれたんです。でもその時はフランス語のレベルが低くて落とされた。それが悔しくて、『私は今どこどこでスタージュをしていて、語学も上達しているから、またいつか機会があったら面接して欲しい』って3カ月おきぐらいで手紙を書き続けました。紹介してくれた友達にも頻繁に電話をして、良いタイミングがあったら教えて欲しいと話していましたね」

実ったのは電話のほうだった。2002年の秋、日本で縫製のアルバイトをして生活費を稼ぎ、再びパリに戻ったタイミングで、その友人に電話。「今がいい」と言われて履歴書を送ったところ、スタージュ生として採用されたのだ。

天才デザイナーの部下に

ここから、「亥年生まれで猪突猛進型」の本領を発揮する。頼まれた仕事をスピーディーに、クオリティ高く仕上げるのは当たり前。日本で身に着けた縫製の技術を活かして、いろいろな形の部分縫いやユニークなポケット、袖の形などをつくってはデザイナーに見せた。このプラスアルファの努力が後に実る。

働き始めて数カ月後、「ぜひバレンシアガに残って仕事がしたい」と訴えた。ところが、返事はノー。「アシスタントもいっぱいいるから」とあっさり断られた。そこでめげないのが大森さんだ。デザイナー職の空きを待ちながら、ドレープや部分縫いで新しい形やデザインを提案するような仕事をさせてほしいと提案。すると、「ディレクターに聞いてみる」という返事を得た。それまでの前のめりな働きぶりが評価されていたのだ。

こうして粘り強く交渉をしている最中に、幸運の追い風が吹く。正社員のアシスタントデザイナーが突然会社を辞めたのだ。

「それなら君をとろう」

2003年6月、大森さんは唯一の日本人デザイナーとしてバレンシアガに正式採用された。「3年滞在してデザイナーになれなかったら日本に帰ろう」と心に決めて渡仏してから、ちょうど3年が経っていた。

フランスでは1週間の労働時間が35時間と法律で決められている。しかしファッション業界では有名無実化していて、大森さんも「毎日最低12時間はオフィスにいました」と振り返る。それもまったく苦ではなかった。

「フランスのデザイナーって縫うのが下手なんだけど、私はほかのアシスタントと違って、きちんと縫製ができました。だから、アートディレクターのニコラがインスピレーションを得るために写真とかを持ってくると、『じゃあこうしたらどう?』ってその場でいろいろ作っちゃうんです。ニコラはそれをすごく喜んでくれて。言葉が上手く喋れなくても、私が一番クリエイションにかかわってるんだっていう自負がありましたね」

ニコラ・ジェスキエールは2013年にマーク・ジェイコブスの後任として、ルイヴィトンのウィメンズ部門のアーティスティック・ディレクター(AD)に就任し、現在もその地位にある。才気溢れるスターデザイナーと過ごす時間は、大森にとってなによりも刺激的だった。

まさかの展開でランバンへ

しかし2006年7月、4年働いたバレンシアガを離れた。そこには、欧米のファッション業界特有の事情がある。ポジション採用なので、いくら頑張ってもアシスタントはアシスタントのまま。特に、まだデザインチームが小規模だったバレンシアガでは二コラが直接の上司だったから、ステップアップしようと思えば外に出るしかなかったのだ。

転職先は「バレンシアガとは雰囲気もデザインもまったく違ったほうが勉強になる」と考えて選んだLANVIN(ランバン)。レディースのシニアデザイナーとして採用されたのだが、ここでも彼女の粘り腰がいきた。

実は転職活動中、ランバンに履歴書を送った際には断りの連絡が届いていたのだ。ところが、たまたま別のブランドの面接を受けていた時に面接官と仲良くなり、「もし良かったら、誰か紹介してくれない?」と相談したところ、ランバンのAD、アルベール・エルバスに電話をかけてくれたのだ。アルベールもまた、ファッション業界では大物デザイナーとして知られるのだが、その面接官の電話がきっかけでアルベールと直接話をする機会を得た大森さんは、3回の面接とテストを経て採用された。

ランバンでは、バレンシアガのニコラとの仕事とはまた違った経験になったという。

「ニコラの場合は、まずヴィンテージショップや蚤の市で面白いと思った服、興味を持った服を買ってきます。それから、インターネットや図書館で昔のファッション誌の服やイメージ写真から面白いディテールを見つけて、それを元に一緒に新しいシルエットをつくっていきます。アルベールはどちらかというとヴィンテージの服より、昔の雑誌から見つけてきたファッションフォトや自分が興味のある年代の服のシルエットのイメージ写真をアシスタントと共にリサーチ、プレゼンしながらコレクションの形を作っていきます」

アルベール・スクール

ファッションデザイナーというと、旅先の風景や花や海など自然からインスピレーションを受けて服の絵を描き始めるというイメージがあったが、そんな牧歌的なことをしているデザイナーはほとんどいないそうだ。

「私も専門学校の教員をしていた時は『この花からイメージしてデザインして』なんて言っていたけど、そんなのまったくない(笑)。ADが『じゃあ、次は70年代の雰囲気かな』と決めたら、70年代の中でもこんな感じというキーワードを言ってもらって、そのなかでアシスタントが探すんです。だから洋服の歴史を知っていないとまずい。例えば『トムボーイ的な感じ』と言われた時に、トムボーイってなに?ってなっちゃうとダメでしょ」

大森さんは、アルベールを「学校の先生みたいだった」と表現する。

「いろいろ課題を出してきて、それをやってみなさいと言うんです。例えば、私は靴のデザイナーじゃないのに、立体裁断で靴をつくってみなさいと言われました。そのアイデアが良いと思えば採用されるから、やりがいもあるし面白かったですね」

ただ、アルベールがすべてを判断し、ほかのデザイナーはみな同列という体制はバレンシアガと一緒で、しばらくすると危機感を抱くようになった。25歳の若手にとってはチャンスかもしれないが、既に30代後半になっていた大森さんは「このままじゃ、先が見えない」と感じたという。

パリのヘッドハンター

そこで次に目指したのが「クリエティブディレクターの右腕的なポジション」。ここからの転職活動もまた欧米のファッション業界ならではのものだ。パリにはファッションを専門とするヘッドハンターが大勢いて、ビジネス系のSNSとして知られるLinkedIn(リンクトイン)に経歴を書き込んでおくと、何人ものヘッドハンターから連絡が来る。その人たちに希望を伝えると、それぞれのツテからいろいろなポジションを提案してくる。

そのなかで彼女が選んだのは、NINA RICCI(ニナリッチ)。2011年4月から、ルイヴィトンで12年ほどヘッドデザイナーを務めていたピーター・コッピングというイギリス人のもとで働くことになった。ここで初めてインターンではない3人の部下を持ち、仕事の内容も変わった。

「服づくりのプロセス自体は一緒なんですけど、いろいろな会議に出席する回数が増えましたね。前は黙々とデザインをしていたんですけど、デザインは部下に任せて自分はアクセサリーやバッグの会議にも出ていました。もうひとつの大きな違いは、デザインの絵を描くようになったこと。ニコラもアルベールもほとんど絵を描かない人だったけど、ピーターは常に絵を描くタイプだったので、私も描くようになりました。何人かの日本の業界人に『絵を描かないとデザイナーじゃない』と言われたこともあって悔しかったから、それは嬉しかったですね」

ひとつ予想外だったのは、ピーターが寡黙だったこと。ニコラもアルベールも常に喋っているようなタイプだったからコミュニケーションを取りやすかったのだが、ピーターは無口で、チームと一緒にクリエイションをするというタイプではなかったそうだ。今までの仕事のやり方とは全く違ったので最初は戸惑いもあったが、大森さんは「またひとつ新しい経験ができた」とポジティブに捉えた。

流行に乗ってニューヨークへ

しかし入社してから1年後、CEOが変わってより具体的に「売れるデザイン」を求められるようになったことで、デザインチームの雰囲気も変化。2014年にピーターが退任したのを機に、大森さんもニナリッチを離れた。そうして少しバカンスを取った後、心機一転、ニューヨークに向かうことを決めた。

「その時、フランス人のデザイナーの間で、ニューヨークに3年ぐらい修行に行って戻ってくるのが流行ってたんですよ。だから周りに相談したら、ニューヨーク行ったら? と言われて。パリには15年いたし、このタイミングで外に出ないともう行かないな、ちょうどいい機会だなと思って、アメリカのヘッドハンターに連絡したんです」

そのヘッドハンターが提案してきたのが、COACHのレディースファッションのシニアディレクターというポジションだった。パリで携わっていたラグジュアリーブランドとは立ち位置が異なるが、大森さんはむしろそこに面白みを見出した。

より商業的なブランドで、グローバルでマーケティングに力を入れていて、中国でのアウトソーシングもある。どれもパリでは経験できなかったことだった。パリで大きな課題だと感じていた英語が鍛えられるというのも魅力だった。英語圏出身のADも多いし、パリコレなどのショーの時、舞台裏の共通言語は英語になる。パリにいても、ファッション業界では英語が話せないと仕事に差し支えがあるそうだ。

COACHでの新鮮な日々

COACHに入社してもう3年半。その忙しさは、パリ時代と比べ物にならない。

「COACHは大きな会社なので、会議が1日5個ぐらいあるときもあるし、そのためのプレゼンの用意もしなくちゃいけない。同時進行でデザインチームの部下や生産チーム、アトリエからは、この色でいいのか、この布でいいのかと次々に質問が飛んできて、それに答えていてランチの時間もとれないことも多いです。まさに中間管理職で、デザイン画を描けるのは18時ぐらいからですね。これが日常で、年に2回、2週間ぐらい中国に行って3、4都市を巡ります。コレクションの服はほとんど中国とイタリアでつくっているので」

話を聞くだけで目が回りそうなスケジュールだが、大森さんは「すべてが新鮮です」と笑顔を見せる。彼女の小さな体のどこにそれだけのパワーが隠されているのだろう。振り返ってみれば、デザイナーを志して文化服装学院に入った時から、大森さんの前にはいくつもの壁が立ちはだかってきた。それを乗り越えて、というより、全力で這い上がって、今がある。

大森さんは学費を稼ぐために休学せざるをえないほど苦学生だったし、受験も、就職活動も失敗している。バレンシアガでも、ランバンでも一度は就職を断られている。彼女の歩みは、こう教えてくれる。本気で挑めば、人生も自分の力でデザインできるんだと。

ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。

過去記事
竪穴式住居で犬と暮らし、クマに思いをはせる。日本初のベアドッグハンドラー、田中純平

Recommend

Related