2019.01.21

定量化だけが正解ではない。僕らに刷り込まれた「危うさ」に気づけるか?──能楽師 安田登×クラシコム 青木耕平 対談【前編】

書き手 長谷川 賢人
写真 木村 文平
定量化だけが正解ではない。僕らに刷り込まれた「危うさ」に気づけるか?──能楽師 安田登×クラシコム 青木耕平 対談【前編】
対談に、凛とした紋付袴姿で現れた安田登さん。下掛宝生流ワキ方として日本の伝統芸能を継承し、舞い、伝える役割を担う、その澄んだ空気のような佇まい……ところが破顔一笑、出会ったふたりは本気のキャッチボールを始めてしまいました。無邪気にボールを投げたと思えば、グッと構えて渾身の一球を投げ返す、そんな約2時間。

先に申し上げておくと、今回の安田登さんとの対談では、ついぞ「能について」の話は出ませんでした!(期待した方がいれば、すみません)

でも、それも「安田登」という人の魅力が成せる結果かもしれません。能だけにとどまらず、論語を学ぶ寺子屋を開き、アメリカ生まれのボディワークである「ロルフィング」の専門家であり、古代メソポタミアで使われた「シュメール語」を用いた演劇も。さらに、3DCGの教則本を書き、テレビゲームのプロデュースをして、会社経営に携わってもいる。

ご自身も「あまり能楽師と言っていいのかわからない」と笑いますが、その豊富な知の引き出しに、今回の対談も話題はさまざま。ただ、あらためて振り返ると、このキャッチボールでは「僕らはどう生きていくのか」というグラウンドを、常に踏んでいたように思います。

クラシコムの代表・青木が、安田さんの著書『身体感覚で「論語」を読みなおす。』に感銘を受けたことから実現した対談。僕たちはたくさんの思い込みや刷り込みの上で生きていたと気づくことができ、また新たな視点を授けてくださいました。 対談前編の合言葉は“Keep it complex”。僕らは個人として、いかにこの世界を生きるのか。

学びの型は「90%の独学」と「10%の先生」

青木
安田さんのご著書を読んだら、能の世界に入られるよりも先に、文字や漢字に興味を持たれたそうですね。とはいえ、もともとの興味や関心を抱いたことが、どこかで能へつながっていくような感覚もあったんでしょうか。

安田
僕は全部が偶然から始まっていまして、一つずつのつながりはないんです。文字に興味を持ったのも麻雀をしていて、ふと気になったからです。3DCGの教則本も、テレビゲームのプロデュースも同じで、「何かを探求しよう」といったカッコイイ感じではなく、あとでつながったというか。

青木
興味を持ったことに、すーっと入っていっちゃうタイプなんでしょうね。学生時代からそうだったんですか?

安田
実家は田舎でしたし、時代もありましたかが、僕が育ったのは中卒の人が多い地域で、勉強する空間や雰囲気も全くありませんでした。450人いた高校でも、成績は後ろから2番目からのスタートでした。

でも、高校生で最初にハンググライダーを作ったのは僕じゃないかと思うんです(笑)。1970年代の前半ですね。当時、日本自作航空機協会に入っていて、アメリカのNASAがハンググライダーを作るというのを耳にして、設計図を取り寄せて実際に作ってみたら……飛んだんです!

青木
へぇー!

安田
それで驚いて。紙に書かれた設計図が届き、その通りに作ったら空を飛べた。これって、実はすごいことですよね。それを知ってから、「本ってすごいなぁ」と思って。書かれたことを実現すると、すごいことが起こってしまうと実感してから、本に対して大きなリスペクトを持つようになりました。

青木
安田さんのバックボーンを知らずに著書を読み始めると、どのことに対しても深い知識をお持ちなのに驚きます。そのリスペクトと学ぶ姿勢が、あらゆる分野に安田さんが通じている根底なのでしょうね。安田さんは新しいことを学ぶときの「型」があるんでしょうか?

安田
学びの型があるとしたら、「90%の独学」と「10%の先生」ですね。

若い頃に、中国を放浪しようと思って中国語を勉強したのですが、そのときはまず信頼できるテキストを探すところから始めました。僕は、北京語言学院が出している上下巻のテキストを選びました。テキストの選択は、なるべく無味乾燥なテキストにします。その方が情報量が多い。

で、テキストを入手したら、まずはざっと全体を自習します。それから先生に付くのですが、それも予習を中心に行います。全体を5回に分けて、最初5分の1まで予習が終わった時点で先生に教わる。そうするとわからないところが明確になっているので、質問と発音の練習が中心になります。それからまた予習をして先生に教わる。これを5回やって、そのテキスト2冊分の中身を全部終わらせたんです。完璧な予習をして、わからないところを質問して、あとは発音を直してもらうだけにしておく。

3DCGの教則本を書いたのは20数年前ですが、今も使われている「LightWave3D」の最初の日本語の市販マニュアルを書いたのは僕なんじゃないかな。それまで3DCGソフトなんて触ったこともなかったけれども、故・秋元きつねさんに教わって書きました。その時も、できる限りの独習していくけれど、それだけでは無駄があるので、「あとちょっとだけ背中を押してくれたら跳べるところ」で先生に付く必要があると思ったんです。

ハンググライダーのときは、最初に材料を買いに行った竹屋さんにいた漁師さんが「面白そうだ」と、それから先の材料探しを手伝ってくれました。

何かを頼まれたときは、それが面白ければ90%は断りません。断るのは、日程が合わないといと、やりたくないものだけ。出来るか出来ないかは関係なく、だいたい引き受けています。

青木
その「型」の強さを体感しているからなんでしょうね。能楽師という肩書きを超えた「安田登さん」という説明しか、もはや言い様がないともいえます(笑)。

イエス・キリストは、最初に何を説教したのか?

青木
安田さんのご著書の中でも、特に感銘を受けたのが『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』です。僕も論語にずっと興味はあったんですけど、論語そのものを読んでも、どこかピンとこなくて。安田さんの本で、初めて自分事になったように感じました。

たとえば、僕は46歳なんですが、論語でもよく聞く「四十にして惑わず」を再定義していただいたことによって、自分の生き方が開けるような思いがありました。詳細は著書に譲りますが、かいつまんで言うと、孔子の時代には「心」を部首とする文字群が少ないことから、孔子は「惑わず」ではなく「或らず(くぎらず)」と言ったのではないか、と。

安田
「或」は、いまは「あるいは」と訓じていますが、この文字ができたころは「区切る」「限定する」という意味です。当時の40歳……現在でいう50歳から60歳になったら「自分はこういう人間だ」「自分ができるのはこれくらいだ」と限定しがちになる。それに気をつけなければならない、そう孔子は言ったのではないかと推測したわけです。

青木
それで「五十にして天命を知る」に、やっとつながる感じがしました。寿命などを思うと、「或らず」を超えた中で天命を知る確率は、たしかに70歳くらいだろうと。そう知れば、今の自分を肯定しやすくなります。

安田
そうですね。孔子は基本的にそういう人だと僕は思っています。論語は基本的に肯定があり、「次の自分を作るための本」です。僕は『あわいの時代の「論語」』という本を書いて、これからの人間が考えていかなければならない問いを提示しました。

孔子は「仁」という概念を提案しましたが、これは孔子以前にはなかった漢字で、まさに「人+二」で「ヒューマン2.0」、すなわち「次の人間になる」という意味です。

孔子は、そろそろ人は、かつてどこにも存在しなかったまったく新しい人、「ヒューマン2.0」になる時が近づいた、そういう提案をしたかったのではないかと思うのです。それが2500年の時を超えて、いま実現されようとしています。カーツワイルも「ヒューマンボディ2.0」という言い方をしていますしね。

青木
あれは面白かったです!

ただ、ここで「ヒューマン2.0」の話を深掘ると夜が明けてしまうので(笑)……僕は、やはり「心」の成立がとても興味深いです。先ほどの「惑わず」のように、「心」という文字が生まれたのが3000年前であり、その当時では受け止めきれない悩みや不安といった「心の副作用」に対応するために、いわゆる三大宗教が生まれていったと安田さんはお書きになっています。

たしかに、キリスト教は原罪というパッケージを用いて「原罪なんだから過去を悔いてもしょうがない!未来は天国か地獄!」と思考をうまく停止させるし、仏教も「全ては無常!」と言い切ってしまうなぁ、と。

安田
キリスト教といっても、イエスの言行と、それ以降では異なるんですよ。イエスの時代には、まだ私たちがイメージするような天国と地獄の概念がありません。

イエスは、まず「悔い改めよ」と説教しました。そもそも、イエスは何語で話していたのかもわかりませんが、おそらくアラム語かヘブライ語でしょうね。最初に書かれた新約聖書はギリシャ語で、「悔い改めよ」は「μετανоέω(metanoeo:メタノエオー)」と書かれています。

安田
meta(メタ)は「180度転換すること」で、noeo(ノエオー)はまさに「know」、認識することです。metanoeo(メタノエオー)は「見方や認識を180度変えよう」という意味です。認識を変えると行動も変わりますが、ここで言う「行動を変える」とは、いわゆる「正しい行いをしなさい」というわけではありません。

たとえば、いま歩いている道を進むとよくない方向に行きそうだから、方向をちょっと変えてみよう。そうすると、立っている地点は同じところでも、全くちがう場所へたどり着く。これこそがイエスのmetanoeoです。

青木
「別の場所へ行こう」というより、見方を変えれば救われるかもよ?というような。

安田
あるいは、逆に歩いても行けるよ、とか。

青木
それまではユダヤ教的な戒律を重視する姿勢が多いなかで、「見方を変えるだけでもっと幸せになれる」というメッセージを贈ったんですね。

安田
そうです。だからこそイエスもヒューマン2.0を目指していたのだろうと僕は思います。哲学者のニーチェが考えた「超人」も近しい概念のはずです。

人間に備わっている、無意識下のパワーを使う

安田
ただ、ユダヤ教的な戒律を必要とする人もたくさんいました。戒律の特徴は、ほとんどが「not」から始まることです。ヘブライ語の「לא(lo:ロー)」ですね。だから、戒律は「なになにするなかれ」という言葉になる。

誰かが誤った道へ進もうとしたら、「こちらの道を行きなさい」と言うよりも「こっちへ行ってはいけない」と否定を教えるほうがわかりやすい。否定形のすごさを伝えたのが戒律で、それこそ初期仏教であり、ユダヤ教ですね。

青木
面白い!たしかに「not」のほうがわかりやすいのは、本当にその通りです。仕事の中でも、先にゴルフでいうところのOBゾーンを明確にしてあげて、そのゾーンに出なければ自由にしていいとするのが権限委譲ですからね。ただ、イエスがmetanoeoを説いたことで、見方を変えたら人生が変わるような人も出てきて、まさに「ヒューマン2.0」が芽生えた。

安田
僕はヒューマン2.0のことをずっと考えているんですが、そろそろ人間はそういうことを重視し始めると思っています。その時、本来の人間に備わっている機能が目覚めるんです。身近な例だと、日本語で「思い出」といいますが、思い出って英語にしづらい言葉ですよね。

青木
思い出……“memory”あたりになるんでしょうか。

安田
そうそう。でも、「記憶」と「思い出」は別物で、“remember”もちょっと違う。英語の「思い出」は「思い出す」という動詞の名詞形ですね。でも、日本語の「思い出」というのは「思い出す」のではなく、「思いが出てしまう」。すなわち考えていなかったことが、ふと「思い出ちゃうもの」なんです。

青木
そうか、意識的に思い出そうとしているわけじゃないですもんね。

安田
自分の意思がなく、時間もなく、距離さえ遠いことが思い出てしまう。すべてを超える、無意識下から出てくるパワーというものが、人間にはあるはずです。

青木
それをビジネスに引きつけて話すと、僕らは道具店なので、インテリアなどの情報収集も仕事のうちといえます。ただ、僕は個人的にあまり興味がない。そんな僕に「本屋へ寄ってインテリア関連の新刊を毎日チェックしなさい」というのは明確に仕事です。

ただ、それが好きな人にとっては新刊が光って見えてくるくらいに、なんてことないわけです。僕は、これこそがその人の「強み」や「得意」なのだと考えるんです。

面接などでも「得意なことは?」と聞かれることは多いですが、言い換えるならば「好きであろうが嫌いであろうが、気がつくとやっていること」ではないかと。それこが安田さんのおっしゃる、自分からつい出てきてしまうパワーを使っている状態なんだと思います。

でも、日本の教育における一つの体系は、そういった内から出てくるものをまず抑えて、やるべきものをやるというようになってしまっている。

安田
まさに、「לא(not)」の世界ですよね。イエスの言葉はそうやって読み直してみると、非常に面白いんです。

「過去を説明する手法」で未来を語る、危うさに気づく

青木
安田さんによる論語の解釈が僕らにしっくりきているのは、人間の進化ともいえるのかもしれないし、心というものに対する不確実性の許容量が増えてもいるのでしょうか。

安田
そうですね。『論語』の本で人気があるのは、いわゆるビジネス本ですが、この本はそういう本ではありません。しかし、ビジネスマンの方も読んでくださっているようです。というのも、読んでくれた方の多くがビジネスマンといっても、『論語』における「これこれしなさい」を求めてはいなかったと聞いています。20年前なら、見向きもされなかった本だったかもしれません。

青木
つい数年前まで、ビジネスの世界ではベストプラクティスをなぞることが、否定されないセオリーとしてあった気がします。あるいは、うまくいっているものを分解して、再構築していくリバースエンジニアリングが近道だと。ところが、あまねく人へ知識が行き渡って事例が増えてくると、どんなに再構築してもうまくいかないケースが明らかになってきた。

戒律的にセオリーを守る人と、それをナチュラルに体現していた人では、同じようになれないことがわかってきたんですね。むしろ、個々に何かの答えを見出さなければいけない。僕はその中で「揺らぎのある真理」といったことに興味が少しずつ移ってきています。

少なからず僕も、10年前までは「ベストプラクティスをもっと学びたい。それを知らないからうまくいかないんだ」と思っていました。ただ、ある程度、いくつか成功した体験からすると、成功していることはDay1からうまくいっているんです。でも、うまくいかない分野ではいくら上手になってもうまくいかない。まさに自分にとってのmetanoeoでした。

安田
古代中国で、こんな漢字があって……(ヘルメットのような半円に、漢数字の「十」が付いた文字を書く)……まさにヘルメットの象形なんですが、ここから「固い」という意味に変わっていき、これが「故(ゆえ)」という字に変化していったんです。現在というのは、変化しない過去によって作られるという因果論を意味した「故」です。

安田
「故に」という意味で、この文字が使われるのは「大盂鼎(だいうてい)」という約紀元前1000年に作られた青銅器の銘文が最初です。故に、故に……と因果を考える手法は紀元前1000年には確立していました。でもそれは、決して未来を考える手法ではなく、過去を説明する手法でした。ただ、現代ではいつの間にか、「故」が未来のために使われてしまっているんです。「こんな本を出版したい」というとまず「安田登はかつて何部売ったのか?」となるように。

青木
「類書はありますか?」とか、お決まりのキーワードもあります。そうか、もともとは現在を説明する方法論としての「因果」を未来の説明に援用しているわけですね。

安田
過去から未来を考えているわけです。でも、そろそろこの考え方から離れる時代に、人は来ているんじゃないか。古代中国で周という国の王が、自分たちの正当性を説明するときに、「かつて前代の巨大帝国だった殷は酷かった」と「自分たちが天命を得た」という過去の2点を用いました。この説明はかなり恣意的ですよね。だって、嘘じゃないですか(笑)。

同じように、恣意的な「故」の構造を使って未来を考える危うさに、そろそろみんな気がついてきたのではないかと思うんです。過去の事例を大切にする人たちと、過去の事例を無視してまったく新しい方法論を確立していく人たち、日本でその対比が鮮明になったのが平安末期。貴族と武士との対比です。『平家物語』には、過去の事例を無視して全く新しいことをしていく武士たちが、過去の事例にこだわる貴族たちを駆逐して政権を執っていくさまが描かれています。

青木
面白い!そうか、もともと因果というのは、ある意味では人をコントロールするためにも使われていたんですね。ギリシャ哲学的に言えば、詭弁的な論理術のようなテクニックだった。それが、未来を予測する方法として使われているところに危うさがある。

ただ、過去から未来を説明するのは、すでに僕らにとっては本能に近いくらい刷り込まれてしまっているわけで……。

Keep it complex!定量化は必ずしも是ではない

青木
近しいところで、僕にもひとつの問題意識があります。現代は技術が発達して、「全てが測定できるから、何でも測定して決めよう」という勘違いのもとで、実際の真理からはかけ離れた、貧しい意思決定が増えている気がするんです。

もともと、西洋の学問体系には神学や哲学があり、その下にいわゆる「教養」がある中で、理系と文系が分かれていますよね。僕の解釈では、理系的な学問は定性的な世界を一旦は「定量化」して、そこで意思決定したものを定性の世界へ戻して、そこで実践していくものです。

文系的な学問は、技術が発達していないから測定できることも極端に少ない中で、物事の真理にたどり着くために、掴めている世界の事象みたいなものから論理を一つずつ組み立てていくもの。まさに哲学的な思考の積み重ねで真理にたどり着こうとするのですが、文学でも哲学でも社会学でも、定性的な世界を「定性のまま」扱う学問なのだろうと。

安田
うんうん。この間、とある国際学会で英語のプレゼンテーションをすることになったんです。通訳の人を頼んでいたのですが、ちょっとしたアクシデントがあって、2日前に自分でしなければならないということになりました。一応準備はしていったのですが、話しているうちに話したい内容がどんどん変わってきて、最終的には“Keep it complex”が大事だという話でおさめました。いまは単純な時代ではない。未来を考えるときに簡単に結論を出さずに、「複雑なものを複雑なままにキープする」、それが“Keep it complex”です。

人間の中には、わざと問題を複雑にしちゃう“Make it complex”もあるのですが、重要なのは“Keep it complex”だと僕は考えます。そして、複雑なものを複雑なままに受け止められる人が、そろそろ増えてきたんじゃないか、とも。

僕の書いた『あわいの力』なんて「結局、この本は何が言いたいんですか?」に答えるものが何もない。でも、複雑なものを複雑なままに受け取ってくれる人が増えて、そういう本が売れる時代が来ている。青木さんのおっしゃる定量と定性の問題でいくと、今までの思考は「定量と定性のどちらが良いか」を選んでいたはずです。

イメージで言えば、中心点がある完璧な円を求める思考ですね。でも、これから必要なのは2つの中心点がある、定量と定性が重なる楕円的な思考ではないでしょうか。これは平川克美さんの『21世紀の楕円幻想論』に詳しく書かれていますので、お勧めです。

青木
その2つの点を行き来するような。

安田
しかも、その行き来が波紋のように反応しあって、一つの美しい楕円形を作っていくような思考方法です。楕円形的な思考方法と“Keep it complex”が出来るようになっていく人が増えることも、ヒューマン2.0に近づいている理由だと僕は思うわけです。

 

後編はさらに、ビジネスの分野でこの時代をどう生き抜くのか、という議論に進みます。
未来を恐れず、説明できないことを続ければ、ビジネスはもっと幸せになる

PROFILE
能楽師
安田登
1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。

好きなこと:旅をすること。蟹を食べに行くこと。わくわくすることをすること。