竪穴式住居で犬と暮らし、クマに思いをはせる。日本初のベアドッグハンドラー、田中純平。

書き手 川内 イオ

写真 鍵岡龍門

竪穴式住居で犬と暮らし、クマに思いをはせる。日本初のベアドッグハンドラー、田中純平。

ベアドッグハンドラーと7頭の犬

見た目は、三角形の変わった小屋。でもなかに入ってみて、ハッとする。小屋の3分の2ほどが地中に埋まっているのだ。

「竪穴式住居なんです。暖かいでしょう」

田中純平さんは、そう言って微笑んだ。確かに、0度を下回る外の冷気を感じない。土のなかは夏も冬も気温が一定に保たれている。地下室がいつもひんやりしているのは、そのせいだ。この竪穴式住居も同じ原理でつくられているから、夏は涼しく冬は暖かい。



2018年4月から、田中さんは軽井沢の森のなかにあるこの小屋で、6匹の犬と一緒に暮らしている。ムツゴロウさんに憧れた僕にとっては楽しそうな生活だけど、田中さんは趣味でそうしているわけではない。田中さんは日本で最初のベアドッグハンドラーで、田中さんの相棒の「タマ」は日本に2頭しかいない熊対策犬「ベアドッグ」、そのほかの5匹の犬は2018年春に生まれたタマの子どもだ。

田中さんは、クマの匂いや気配を察知するために特別な訓練を受けたタマと常に行動を共にしていて、クマが人里に姿を現したことがわかるとコンビで駆け付ける。現場につくとタマがクマを追跡し、発見したら大きな声で吠えたてて威嚇して、クマを森に追い払う。それが田中さんとタマの主な仕事だ。

なぜリゾート地でクマ対策? と疑問に思う人もいるだろう。実は軽井沢の北半分は鳥獣保護区で、ツキノワグマを含むたくさんの野生動物が暮らす。その一方で軽井沢は別荘地として広く開発され、住民も増え続けてきた。1990年に1万5464人だった軽井沢町民は、2017年には1万9000人を超えている。



別荘地の拡大と住民の増加は、森に暮らすクマと人間の距離を近づけた。1999年には、「クマにゴミ箱を荒らされた」という通報が129件あった。クマはだいたい11月から4月頃まで冬眠するから、活動しているのがそれ以外の半年だとすると、毎月20件以上の通報が入る計算だ。

想像してみてほしい。多くの人が住む別荘地や住宅街にクマが平然と現れ、我が物顔でゴミ箱を荒らす。その場に遭遇したら襲われかねない住民は、怯えきっていた。1998年ごろからこの問題に着目し、独自でクマの調査と被害対策に乗り出していたピッキオに「クマ対策の専門家」として加わったのが田中さんだった。クマ対策の専門家がユニークな竪穴式住居で犬と生活を共にする理由は、後に記そう。

ベアドッグハンドラー

田中純平

長野県軽井沢町で里に近づくクマ対策用の犬「ベアドッグ」の飼育・訓練をしている国内初のベアドッグのハンドラー。北海道知床国立公園のヒグマ対策職員として働いた後、北海道大大学院で大型野生生物の研究にて修士課程を終了。NPO法人ピッキオにて軽井沢のクマ対策に入りベアドッグに出会う。

C.W.ニコルに送った手紙とその返信

田中さんは兵庫県の稲美町出身。その名の通り田園地帯が広がる自然豊かな環境で育った田中さんは、幼い頃から動物が好きだった。そのことを強く意識するようになったのは、愛媛県松山市にある大学に入ってからだった。

経営学部の学生時代に、作家のC.W.ニコル、写真家の星野道夫、カヌーイストの野田知佑の著作を好んで読むようになった。経営の勉強よりも、自然や動物にかかわる仕事がしたいと思うようになり、その頃、自然を守るレンジャー育成の専門学校の設立に動いていたC.W.ニコルに手紙を送った。

「大学を辞めてあなたの学校に行きたい」

日本語でしたためたその手紙にC.W.ニコルから返信があったのは、半年ほど経った頃だった。そこには英語でこう書かれていた。

「君は一生懸命勉強して今の大学に入った。私はその大学で勉強を続けて、卒業するべきだと思う。学校に通いながらでも、スペースタイムに環境問題にかかわる活動はできるはずだ。だから頑張れ。健闘を祈る」

この手紙を読んだ田中さんは、大学の授業に出て必要な単位を取得しながら、時間を見つけてはアルバイトやボランティアで環境保護活動や野生動物の調査に携わった。

大学4年生になってもC.W.ニコルの学校に行きたいという想いはぶれず、家族、親戚の猛反対を押し切って、1996年、自然環境や野生動物の保護にまつわる知識や技術を身に着けるTCE東京環境工科専門学校に入学した。

恩師の言葉

それまでため込んだ熱を解き放つように、学校で貪欲に学び始めた田中さん。その熱意に煽られるように追い風が吹く。1年生の冬頃、同じ学校の卒業生で、北海道の知床でネイチャーガイドの仕事に就いていた先輩から連絡があった。

「田中くんってクマ好きだよね? 熊のお仕事の公募が出てるよ。応募出してみたら? 」

確かに、数多の動物のなかで最も気になる動物がクマだった。C.W.ニコルや星野道夫はその著書で何度もクマについて書き記していたし、特別な存在として扱っていた。入学した年の8月、星野道夫はロシアでヒグマに襲われて死亡したこともあり、人間とクマの共存についても思いをはせていた。

先輩からの情報通り、知床国立公園でヒグマ対策のための短期職員を募集していた。こういう仕事は狭き門だが、迷わず応募した。

その数カ月後、2年生になる前の春休み。某企業の依頼でエコツーリズムの開発をするためにフィリピンに滞在中、採用を告げる電報が届いた。そこには、こう記されていた。

「今すぐ来てください」

なんとも急すぎる話だ。しかも、知床国立公園に数カ月滞在しての仕事なので、学校に通うこともできなくなる。急いでフィリピンから帰国し、校長のC.W.ニコルに相談した。

「北海道にも憧れていたから、この仕事は自分にとって喉から手が出るくらい欲しかったチャンスなんです。でも、学校を中退しなきゃいけません。どう思いますか?」

「専門学校はきっかけをつかむための場であって、卒業するためにあるんじゃない。自分が今だと思ったなら、行きなさい」

憧れの人にそっと背中を押された田中さんは、1年で学校を退学。軽自動車に荷物を乗せて、北海道を目指した。

運命を感じて軽井沢へ

ここから、クマを中心とした大型野生動物の専門家としての歩みが始まった。知床国立公園での契約を終えた後、当時の上司の紹介もあって大雪山国立公園で再びヒグマ対策の仕事に就いた。次は、北海道の研究機関に入ってエゾシカの保護管理の研究補助員になった。この時、上司に「君は、フィールドワークは十分やった。今度は頭を鍛えるために大学院に行きなさい」とアドバイスされて、2年の契約満了後、北海道大学の大学院生になった。

大学院でのテーマに選んだのはエゾシカ。修士の2年をかけて、「どの段階でどうアプローチすれば、エゾシカを保護しながら数をコントロールできるのか」という個体群動態に関わる研究を行った。この研究にやりがいを感じていたから、博士課程に進んでエゾシカを究める道もあった。しかし、迷いもあった。これまでに培った知見を活かして、地域と野生動物の間に立つ仕事をすべきだという思いもあったからだ。

研究者になるか、現場に戻るか。岐路に立った時に、軽井沢のピッキオの求人に出会った。軽井沢町からの委託を受けたピッキオは、人里に現れたクマを撃ち殺すのではなく、共存する道を探ろうとしていた。条件は「大学で野生動物の研究を行った経歴を持ち、クマ対策の経験や知識を有している者」。まるで自分を求めているように感じた田中さんは、「これしかない」と応募した。

ところがなんと、結果は不採用。がっくり落ち込み、別のところに就職しようとしたところで、ピッキオから連絡がきた。聞けば、合格者が最終段階で別の仕事を選んでしまったという。そこに運命的なものを感じた田中さんは、軽井沢への移住を決めた。

恐怖との闘い

2001年、ピッキオの職員となった田中さんは戦慄した。先述したように、当時の軽井沢はいつツキノワグマと人間の接触による事故が起こるかわからない状況だった。

「クマが出るのは日常茶飯事で、同時多発的にこっちのごみ箱にも、あっちのごみ箱にもクマがいて、そこに住民がゴミを出していると知って、鳥肌が立ちましたね。みんな、この怖さをわかってるの?って。事前に話を聞いてはいたけど、人とクマの距離がこんなに近いというのは想像していなかった。ここまでくると、もはや人の安全を守りながら熊も保護するのは手遅れじゃないかと思ったし、逃げ出したくなるくらい怖かった」

実際、知床国立公園で働いていた時の上司に視察を依頼したところ、「これは大変なことになる。ゴミに餌付いてしまったクマは一掃しなさい」と言われたという。それほどの危険が迫っていたのだ。

できるところから手を付けようと、田中さんはすぐに地元の方の紹介で知り合った富山の鉄工業者と組んでクマに荒らされないゴミ箱の開発を始めた。同時進行で、別荘地や住宅街に現れたクマを次々と捕獲して、発信器を装着。位置情報を24時間追跡し、人里に近づくたびに出動しては、大声を出したりロケット花火を向けて追い払った。クマが出てきたその場所でクマを驚かせたり、怯えさえることで「人間のいる場所は怖いから近づかない方がいい」と憶えさせるのだ。しかし、すぐにこの取り組みには無理があることがわかった。

「私は知床で熊の追い払いを学んだんですけど、現地では鉄砲でゴム弾や花火弾を撃っていました。でも、軽井沢では鉄砲は使えないんですよ。銃刀法の関係で、建物の近くで銃を持ってうろうろしてはいけないし、威嚇弾も使えない。人間の声や花火じゃあまり威嚇の効果はなくて、1分間に5メートルも動きません。クマに近づけば逃げるのかもしれないけど、別荘地や住居地に出てくるクマは夜に行動することが多く、暗闇のなかで藪に潜んでるからどこにいるのかわからないから怖くて踏み込めないんですよ。クマには私が見えているし」

目を疑う光景

発信器では、だいたいの場所しか特定できない。夜、どこに隠れているのかわからない、しかも自分の動きをじっと見つめているクマに向かっていくことの恐怖は、当事者にしかわからないだろう。人力による威嚇はそれほど効果が得られない可能性が高いうえに、命の危険すらある。それなら、別の手を打つしかない。それが、ベアドッグだった。

フィンランドとロシアの国境地帯カレリア地方に、伝統的にクマ狩りなど狩猟に使われてきたカレリアン・ベアドッグという犬がいる。オオカミに近い性質を持つ犬種で、勇敢でプライドが高く、尊敬されるような存在にならなければこの犬とは良い関係が築けない。アメリカには、この犬種のなかから特にクマ対策犬として素質のある犬を選抜し、育成する「Wind River Bear Institute」(WRBI)という機関があり、そこで育ったベアドッグが主に北米の国立公園で導入されている。田中さんは、大学院生時代に参加した学会で、たまたまこの機関の活動を知った。ピッキオも数年前からWRBIとベアドッグの存在を把握していたこともあり、すぐに導入に向けて動き始めた。

田中さんがピッキオに加わった年の年末には、WRBIの代表、キャリー・ハントさんを招聘。クマに荒らされないゴミ箱を開発していること、田中さんのような知識と経験豊富な専任スタッフがいること、地域も協力的なことを告げると、翌夏、キャリーさんがベアドッグを連れて来日。コンビでクマの追い払いを実践して見せた。田中さんはその効果に目を疑った。

「犬にはクマの居場所がわかるから、昼も夜も関係なくストレートに突進する。その一歩の速さと強烈な吠えに驚いて、クマが一目散に森のなかに逃げるんです。その逃走距離を出したんですけど、1分間に40メートルでした。我々が人力でやってきたことが、石器時代のように感じましたね(笑)」

試行錯誤の訓練

ピッキオはWRBIに対して正式にベアドッグの導入を依頼。2004年に生まれた子犬のなかから2頭が日本に送られることになった。名前はブレットとルナ。ハンドラーは相棒となる犬との相性が重要で、群れのリーダとして頼られ尊敬される存在になる必要があるため、キャリーさんが田中さんの性格や生活スタイルにマッチした子犬を選定。その上で田中さんも2回渡米してブレットと共に生活し、一緒にハンドリングを学んだのちに連れ帰ることができた。

ルナにもピッキオのハンドラーがついたのだが、間もなくしてハンドラーが離職。カレリア犬と飼い主の信頼関係は強く固いため、ルナも一緒に軽井沢を離れることになり、ブレットが国内のベアドッグとなった。

田中さんとブレットの仕事は、クマが冬眠から覚める5月から再び冬眠につく11月までの約半年間、多忙になる。24時間体制で、発信器をつけたクマの動きを捕捉し、町に近づいてきたのがわかったら車で急行する。

警戒心が強いクマが人里に姿を現すのは、日が落ちてから早朝にかけての時間が多い。その半年間は安眠できない日々が続くのだ。

日本にはベアドッグを育成するノウハウがない。とはいえ、しょっちゅうアメリカに問い合わせるわけにもいかない。ブレットが日本に来てからは、アメリカで聞いたことをベースにしながら試行錯誤の訓練が続いた。

「カレリア犬は独立心が強い犬種なので、こちらからガミガミ言うとやる気を失って、言うこと聞かなくなる可能性があります。だから、褒めて育てなきゃいけない。しかもプライドが高いうえに警戒心も強く、失敗を重ねると自信を失ってしまうので、小さなことから成功体験を積み重ねていくようにします。それで少しずつハードルを上げていって、失敗したらまた前の段階に戻る。非常に根気がいります」


ブレット 提供:NPO法人ピッキオ

まだコンビを組み始めて間もない頃、追い詰めたクマに反撃されて危機一髪の状況になったこともあるという。そういう失敗を乗り越え、人と犬の二人三脚で成長していった。

悲劇のお別れ

並行して、2004年に新型のゴミ箱が完成すると、5年かけてクマの生息地域に近いゴミ箱をすべて置き換えた。田中さんとブレットのパトロールとゴミ箱の効果によって、2009年にはクマによるごみ荒らしの被害がゼロになった。2006年に過去最多の36件を記録した住宅地での目撃情報も徐々に減った。2011年からは、地元のすべての小学校で全学年に「クマと人との関係」を教える授業も始めた。

出動回数が400回を超えた頃には、阿吽の呼吸でわかり合える熟練のパートナーになっていた。しかし2013年4月、悲劇が襲う。ブレットが急性骨髄性白血病で急死してしまったのだ。まだ働き盛りの9歳だった。

「4月19日に亡くなったんですけど、立てなかったですね、その日は。何も考えられないくらいの喪失感で。ブレットはWRBIで、原石としては完璧だから、ダイアモンドになるよと言われていました。でも、アメリカから来た時は、本当にできるの? みたいな雰囲気で、町の人も引いてみてる感じで。そこでブレットが頑張ってくれたことで、どんどん認められるようになったんです。それが急に死んでしまって。辞めようかなとも思いました。もう失う苦しみを味わいたくなくて」

この時、唯一無二の相棒を失って悲嘆に暮れる田中さんを励ましたのは、ピッキオのスタッフだけではなかった。軽井沢の町の人たちからたくさんのメッセージが寄せられた。

「あなたが辞めたら、今まで築いてきたものが全部なくなっちゃうよ」
「ベアドッグを育成できる人、あなたしかいないでしょう」
「支援するから続けてください」

ブレットは有能なうえに人間に対する愛想もよく、多くの人を惹きつけた。その功績を無駄にしてはいけない。もう一度やり直そうと覚悟を決めた田中さんはピッキオのスタッフと相談して、次世代ベアドッグ導入プロジェクトを計画。資金を集めるところから始めたところ、予想を超える寄付が集まった。

その資金で2015年10月にブレットの後継者としてアメリカからやってきたのが、兄弟犬のタマとナヌック。タマは、ブレット(弾)の後継犬として田中さんとコンビを組むということで「弾=タマ」と名付けられたのだ。もうひとり、別のスタッフがナヌックのハンドラーを務めることになった。

ベアドッグの可能性

田中さんはタマと24時間行動を共にして、ブレットと過ごした9年で培った知恵と経験のすべてを注ぎ込んだ。その期待に応えたタマは、ブレットに勝るとも劣らないほど田中さんと以心伝心のベアドッグになった。今では、コンビで町を歩いていると、子どもからお年寄りまで年齢や性別を問わず話しかけられるようになった。もはや、軽井沢では知らぬ人のいないほどの存在になったのだ。

ブレットが軽井沢に来てから15年。田中さんはベアドッグに大きな可能性を感じている。

「熊を追い払うという本来の仕事でも欠かせない存在なのですが、それよりも人の心に訴える力がすごいんです。今では軽井沢で普通に生活をしていて熊を見ることはほとんどないんですけど、ベアドッグが一生懸命に働いている姿を見て、住民もクマの存在を意識して、『犬があれだけ頑張ってるんだから俺たちもちゃんとやろう』と思うようになる。クマ対策には住民の皆さんの協力が必要で、ベアドッグが共存の象徴になっているんです」

田中さんは、ブレットと叶えられなかった想いをタマに託した。日本でベアドッグを繁殖し、育成するという計画だ。日本とアメリカの動物の検疫の問題で、ブレットが急逝した後、WRBIからタマとナヌックが届けられるまでに1年半の時間を要した。その間は、効果の薄い人力による追い払いをせざるをえなかった。将来、タマとナヌックになにかあった時に、このような空白期間が生じるのを防ぐと同時に、子どもたちがタマとナヌックからクマ追いを学べるという利点もある。

2017年夏に「ベアドッグ繁殖プロジェクト」を立ち上げると、222人から290万円超の支援が寄せられた。この資金で昨年1月にWRBIからベアドッグのオスを招致。タマとの交配が成功して、春に6頭の子どもが誕生した。この新しい家族の住処としてつくられたのが、遊び場を兼ねた竪穴式住居だ。そして、オオカミのような原始的な性質を持つカレリアン・ベアドッグの家族に群れのリーダーとして認められるために、田中さんも一緒に暮らし始めた。

新たなベアドッグの誕生

昨年6月には、再びWRBIの専門家を招聘してベアドッグの適性テストを実施。レラとエルフと名付けられた2頭がベアドッグとして育成されることが決定し、ほかの4頭は関係者にもらわれることになった。

田中さんは現場の責任者として交配、適性テスト、子犬の生育などについてWRBIの専門家から教えを受けた。これでようやく、日本でベアドッグを育成できる環境が整った。しかし、田中さんの仕事は尽きない。

「これまで犬を育成する、命を繋いでいく技術は学んだので、次のステップは人を育てていくことです。しばらくは僕がレラとエルフの指導を担当しますが、一頭のベアドッグに対してひとりのハンドラーがつくのが理想ですから。新しいハンドラーを育てないと、せっかく僕が学んだこの技術が犬と一緒に残らない。それが今後の課題ですね」

クマ対策に頭を悩ます自治体や企業のなかには、ベアドッグの活動に関心を持つところも多い。そこで、軽井沢のクマ対策を任せられる人材が育ったら、今度は少しずつ国内にベアドッグの活動を広めたいという思いもある。その傍らには、タマが寄り添っているのだろう。

若かりし頃、自然のなかで暮らし、野生動物と人間の橋渡しを志した男は、今日もベアドッグとともに竪穴式住居で暮らしている。

ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。

過去記事
路上から世界に飛び出した靴磨き職人、長谷川裕也さん。 業界のイメージを変えた変革者の意外な素顔

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