路上から世界に飛び出した靴磨き職人、長谷川裕也さん。 業界のイメージを変えた変革者の意外な素顔

書き手 川内 イオ

写真 小倉亜沙子

路上から世界に飛び出した靴磨き職人、長谷川裕也さん。 業界のイメージを変えた変革者の意外な素顔

全財産2000円

やばい、やばいと思っていたけど、マジでやばい。財布のなかに2000円、それが全財産。日雇いのアルバイトの給料は、だいたい1日7000円。それで食いつないでいたのに、どういうわけか仕事がこなくなった。

なんとかして日銭を稼がないといけない。パッと思い浮かんだのは、路上マッサージと靴磨き。10分500円で肩もみするか、同じ値段で靴を磨くか。もともとファッションが好きだったから、靴磨きにした。なけなしの夏目漱石を握りしめ、向かった100円ショップ。靴磨きセットとお風呂用のイスを2つ買った。計315円。

靴磨きといったら、サラリーマンの町、丸の内だろう。なじみがなさ過ぎて、ひとりで乗り込むのは心もとない。友人に「靴磨きやってみない?」と声をかけたら「ああ、いいよ」。2004年5月1日、東京駅の丸の内口へ。家から持参したダンボールを切り分けて、100円から500円まで5つの価格を書いた。靴磨きの相場がわからなかったからだ。

適当な場所に陣取り、ダンボールとお風呂用のイスふたつを置いた。そのうちのひとつに腰掛けて、準備完了。はたから見ればシュールな姿かもしれない。でも意外にもすぐにお客さんが来た。人の靴を磨いたことなんてなかったし、そもそも磨き方も知らない。とにかくピカピカにしようと熱心に磨いたら、10分後に500円が手に入った。

友人と交代しながら、その後もちょこちょことやってくるお客さんに対応した。途中から、キリの良いワンコイン500円に定めた。丸の内の夜、手元にはふたり合わせて7000円。偶然にも日雇いの仕事と同じ金額だったけど、その価値はまったく別ものだった。

「自分のアイデアで稼げたという感動があって、すごく嬉しかったです。もともと人と話すのが好きだからお客さんと会話しながら靴を磨いてお金をもらうというのが楽しくて。これはいい商売だなと思いましたね」

靴磨き職人、長谷川裕也さんの20歳の春の出来事だった。それから13年後、この若者が世界王者になることはまだ誰も知らない。

靴磨き職人

長谷川裕也

1984年千葉県出身。製鉄所での勤務、英語教材の営業マンを経て2004年、20歳の時に、丸の内の路上で靴磨きを始める。その後、品川駅前の路上へと移り、2008年、南青山にBrift H(ブリフトアッシュ)を開店。2017年、靴磨き世界大会「ワールドチャンピオンシップ」で世界チャンピオンとなる。

眠っていた才能

高校卒業後、地元の製鉄所に就職。給料11万4000円という破格の安さだったが、そこでの出会いが最初の転機となった。製鉄所の広大な敷地では、鉄鉱石など原料を運搬するための貨物列車が走っている。運転士のなかにサーファー風のかっこういいお兄さんがいて、なんとなく注目していた。

ある時、そのお兄さんが勉強しているのを目撃。思わず、なにしてるんですか?と尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「日本大学の通信制で経営だか経済を学んでいると言うんですよ。ワーキングホリデーで英語を話せるようになったけど、それしかないから勉強して自分で貿易会社をやりたいって。まさか職場にそんな人がいると思わなかったからビックリしました」

初めてワーキングホリデーの制度を知り、俺も海外に行きたい!と思った長谷川さんは、仕事が終わってからすぐに英会話学校に向かった。そうして熱心に通い始めた頃、たまたま目にした求人にこう記されていた。

「英語を学びながらお仕事可能。週給13万から」

好条件に惹かれて説明を聞きに行った長谷川さん。「フルコミッション制」と説明を受けて、仕事した分だけ稼げるなんて! と製鉄所を8カ月で辞めて転職した。

仕事は路上で声をかけて、数十万円する英語の教材を売ること。まったくうまくいかない無給の4カ月を経て、眠っていた才能が開花した。明るい性格と軽妙なトークで、多い時には1週間で3つの契約を結んで、週給40万円を手にした。気づけば19歳で会社の最年少役職者になっていた。

しかし、快進撃は長く続かなかった。スランプに陥り、契約が取れなくなった。激務が祟って体調も崩した。母親から真剣に「もう辞めなさい」と諭されて、退職。それからは日雇いのアルバイトで糊口をしのいでいたが、その仕事もこなくなり、当たって砕けろ!で始めたのが、靴磨きだった。

靴磨きのポテンシャル

丸の内で靴磨きを始めてから1カ月後、「Theory(セオリー)」というブランドのショップで職を得た。ここでも営業の才能を発揮し、どんどん売り上げを伸ばして1年で副店長に抜擢された。ファッションが好きな長谷川さんにとってやりがいのある職場だったが、週に2度の休日を利用して、路上に出続けた。稼げたから、ではない。

「路上で靴磨きをする許可をもらっていた世代の方々が引退し始めている時期だったんです。まだまだやれることがいっぱいあるし、需要もあるのに靴磨き職人は減っているから、ブルーオーシャンだなと思っていました」

公道で靴磨きをするには、所轄の警察署の道路使用許可と都道府県が出す道路占用許可が必要になる(店舗などの軒先を借りる場合は別)。戦後の復興期、特例的に靴磨き職人にも許可が出されていたが、その後、新規の登録が認められないようになり、職人も自然淘汰されている状態だったのだ。

しかし、路上の靴磨きを利用するビジネスパーソンは少なくなく、有名なベテラン職人のもとには常に行列ができ、1日に100人前後の客が訪れる。長谷川さんが始めた10分500円でも1日5万円。土日休んで20日間の仕事でも100万円になる計算だ。

長谷川さんが靴磨きを始めた頃、靴磨きの職人は先述の事情でベテランしかいなかったから、パリッとオシャレをして靴磨きをする長谷川さんは目立っていた。意外なほどニーズがあるのに、職人は減っている。しかも、若者は皆無。長谷川さん自身は許可を得ていなかったが、そこに可能性を見出したのだ。

22歳の決意

とはいえ、すぐに人気職人になったわけではない。東京駅では50年近いキャリアを持つベテラン職人がいて、多くのお客さんを抱えていた。真冬の休日、路上に出てもお客さんが1人もこなかったこともある。そんな日は「やめようかな」と思ったそうだ。「でも諦めるのはもったいない」という気持ちが勝り、2005年2月、ほかに靴磨きがいなかった品川駅の港南口に拠点を移した。これが功を奏した。

「Theory」のショップで副店長になり、毎週水曜日に休みをもらえるようになったことも追い風になった。それまではバラバラの休日だったから、長谷川さんに靴を磨いてもらいたいというお客さんがいても、いつ行けばいいのかわからなかった。品川の港南口に移ってからは、「毎週水曜日、ここで磨いてます」と言えるようになり、定期的に訪ねてくるお客さんが増えていった。

持ち前のコミュニケーション能力を存分に発揮して、新しい市場も開拓した。ある春の日。港南口にある会社の社長さんの靴を磨いていると「うちには靴がたくさんあるから、磨きにきてよ」と言われた。後日、その社長の自宅を訪ねると下駄箱に30足を超える高級な靴がずらーっと並んでいた。一度に全部を磨くことはできないので、「Theory」のショップに出勤する前に何度かその家を訪ね、すべて磨き上げた。

これなら路上以外でも稼げる。長谷川さんはそれから、お客さんに「出張もしてるんですよ」と話すようにした。すると、「それならうちのもお願い」というお客さんが次々と現れた。たくさん靴を所有している富裕層のお客さんが多かったのだ。そういうお客さんは企業の経営者や幹部がほとんどで「うちの社員の靴を磨いてほしい」という依頼もくるようになり、オフィスに出向いて靴を磨く仕事も増えた。

当時、出張して靴を磨く職人はほかにいなかった。自力で鉱脈を掘り当てた長谷川さんは、3年目にして腹を決めた。
「独立しよう」
2006年、アパレル店員を辞めて、靴磨きに懸けた。22歳だった。

千葉スペシャルに1日だけ弟子入り

改めて、衝撃を受けた。常時20人ほどが並んでいるなか、いわゆる一般的な磨き方とは全く違う方法で、あっという間に靴をピカピカに光らせる。所要時間はわずか5分、ふたりいる弟子とともに次々とお客さんをさばいていく。隣で見ていて「すごい」「ありえない」そんな言葉しか浮かんでこなかった。

有楽町駅前の伝説的な靴磨き、「千葉スペシャル」こと千葉尊さんの仕事ぶりを見ての感想だ。22歳で独立を決めた時、もう一度、靴磨きを学び直そうと、千葉さんに頭を下げて1日だけ弟子入りさせてもらったのだ。

千葉さんの横について、あれこれ質問をした。千葉さんは懐の深い人で、聞いたことには丁寧に答えてくれた。実は、先に挙げた1日100人のお客さんが来るのが、千葉さんだ。ちなみに千葉さんのところは1回800円。「お金、何に使ってるんですか?」と率直に聞くと、笑いながら教えてくれた。

「銀座に行ってパーッとつかうんだよ」

この言葉を聞いて、独立直後の長谷川さんがやる気を滾らせたのは言うまでもない。プロとして靴や革の知識を得るために、以前にも増して雑誌やネットの情報を読み漁り、自分でも靴を買うようにした。靴磨きを始めた頃からの屋号「靴磨き.com」のホームページを立ち上げて、出張、宅配のメニューを載せ、ブログには靴磨きのノウハウを公開した。

「かっこわるいね」と言われて

毎日、路上に出るようになると異色の若手職人としてメディアに取り上げられるようになり、品川駅には連日20人から30人のお客さんが来るようになった。そして、常連さんが新しいお客さんを連れてきてくれるようになった。その出会いが仕事のスタイルを変えるきっかけとなった。

「かっこわるいね」

なじみのお客さんの紹介で訪ねてきたのは、アパレル業界では有名なディレクターだった。その人の第一声が、これだった。服装や立ち振る舞いに気を使っている自負があった長谷川さんはカチンときながらも、「そうですか?」と聞き返した。

「ネイリストみたいにテーブルで向かい合って靴を磨けないの? 小さい椅子に座ってるのはかっこ悪いよ」

路上にテーブルを広げるわけにはいかないと答えると、その人は言葉を続けた。

「それなら、カウンターみたいなものを置いて、美容師が髪を切るみたいに、お客さんが座って、磨くほうが立ってやる方が、かっこよくない?」

路上ではカウンターを置くこともできないから、なんとなく返事をしてその場は終わったのだが、頭の片隅には言葉のイメージが残っていた。

そこで、某百貨店のVIPパーティーに呼ばれた時に即席のバーカウンターを用意してもらった。お客さんに靴を脱いで着席してもらい、自分はカウンターを挟んで話をしながら靴を磨く。これが予想以上の大好評だったことに加えて、靴を磨くうえでも理にかなっていることがわかった。

「例えばいま、僕が靴磨きする時はまずアルコールで靴のなかのホコリを取って、次にソールの側面を紙やすりで削ってきれいに整えます。靴を履いた状態ではそれができない。靴を脱いでもらった方が100%の磨きができるんです」

2008年6月18日、長谷川さんはコツコツと貯めた100万円と国民金融公庫(日本政策金融公庫)で借りたお金を元手にして、南青山の骨董通りに世界初の靴磨き専門店「Brift H AOYAMA」を開いた。その時、バーのようなカウンターで靴を磨く斬新なスタイルが話題になったが、それはお客さんからの率直な一言と鋭いアドバイスが理由だったのだ。

500円から4000円に値上げした理由

お店を始めてから、10年。「靴磨きをファッションにしたい」「靴磨き職人をしっかり稼げる職業にしたい」という思いを抱く長谷川さんは、これまでずっと、答えの見えない試行錯誤を続けてきた。

例えば、価格。お店を始めると家賃がかかる。ひとりではできないからスタッフを雇う。そのうえで、生活できるように稼ぐ必要がある。10分500円だった路上時代から大幅に方針を転換し、1時間かけて隅々まで磨くことを売りにして、最初は1500円、3500円、6000円のコースを用意した。

これで路上時代のお客さんは姿を消したが、そのかわりに、これまでにないスタイルで丁寧に磨いてくれると評判が立ち、新しいお客さんがついた。ところが95%のお客さんが1500円を選択して、忙しいのに赤字という状態が3年続いた。

これでは持たないと、2011年、お店をリニューアルすると同時に一律2400円に統一。その直後に東日本大震災が発生し、値上げとのダブルパンチで一気に売り上げが落ち、「暗黒時代」に。一時はキャッシュが足りなくなり、追加融資を受けた。綱渡りだった経営が安定するまでに、2年を要した。

6期目にようやく黒字になったが、そこに安住しないのが長谷川さん。2016年5月、再び値上げして一律4000円に。この時も一部のお客さんが離れたが、「高い」というお客さんには値付けの意図を説明した。

「ヘアカットでもマッサージでも10分1000円が相場ですよね。だからほんとは6000円もらいたいと思ったんですけど、さすがにそれは高い。それで4000円にして、僕の指名料はプラス2000円いただくことにしました。お客さんには相場のことを伝えていままでつらかったんですと謝りました。それでわかってもらえたと思います」

「靴磨き」をビジネスに

驚くのは、胃が痛くなりそうな暗黒時代のさなかに、靴を磨くクリームの開発にも乗り出していることだ。靴磨き職人の間ではフランス製のサフィール、ドイツ製のコロニルが二大巨頭。しかしどちらも個性が強く、メリットとデメリットがはっきりしていた。そこで、お店の顧客だった化粧品会社の社長とともに「中間の使用感」かつ「最高級の品質」のクリームをつくり始めた。これが完成したのは2015年。研究開発に3年かかったが、その価値はあった。

「すごく評判が良くて、今は売り上げの3分の1がこのクリームを中心にした用品の販売が占めています。これがなかったら会社が存続してないぐらい大きな存在ですね」

古くからある「靴磨き」のイメージを一新し、ファッション、ビジネスとして確立していった長谷川さん。その道のりは平たんとは程遠く、むしろハードなデコボコで、「ユンケルを飲みながらずっと起きてるみたい(笑)」な状態だったが、それでも前進し続けた。

昨年には、スウェーデンの靴磨き情報サイトが主催する史上初の靴磨き世界大会「ワールドチャンピオンシップ」にエントリー。書類審査を通過して決勝に進出し、5月にロンドンで開催された決勝大会ではイギリス人、スウェーデン人と3人で靴磨きの腕を競って、見事に初代王者の栄冠を手にした。

もともと「Brift H AOYAMA」には外国人のお客さんもいたが、これを機に海外でも「HASEGAWA」の名を広く知られるようになり、バンコク、シンガポール、香港などから招待を受けて海外出張する機会も増えた。最近では、ロシアから「大会の審査員に来てほしい」とオファーがあったという。

2004年5月1日、丸の内の路上でデビューした長谷川さんに靴磨きを頼んだお客さんのなかで、現在の姿を想像できる人はひとりもいないだろう。

世界王者の働き方改革

独立した時から「日本の足元に革命を」と掲げる長谷川さんがいま手を付けているのは、自分の足元である日々の生活をより良くするための改革。家族と一緒にいる時間を確保するために、来年、海沿いの町に転居する。

「僕はファミリーファーストなんです。子どもが3人いるんですけど、かわいすぎるじゃないですか。できるだけ子どもと一緒にいたい、子どもを自然のなかで育てたいという純粋な気持ちで決めました。店を始めてもう10年経ったので、現場に立つ日数を半分ぐらいにして、少し違うことやろうかなと思っています。いまは現場をスタッフに任せるために準備をしている時期ですね」

「靴磨きをファッションに」「靴磨き職人をしっかり稼げる職業に」という目標をクリアしてきた靴磨き業界の旗手は次に、自ら実践することで「仕事も家族も大切にできる職人の新しい働き方」を示そうとしているのかもしれない。

インタビュー中、切れのいい動きで靴を磨きながらにこやかに質問に答えてくれた長谷川さんだが、子どもの話をする時の笑顔がなによりも嬉しそうで印象的だった。

ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。

過去記事
アートから銭湯に導かれて。浴場を彩るペンキ絵師、田中みずき。

 

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