アートから銭湯に導かれて。浴場を彩るペンキ絵師、田中みずき。

書き手 川内 イオ

写真 鍵岡 龍門

アートから銭湯に導かれて。浴場を彩るペンキ絵師、田中みずき。

流れるように、なめらかに。

10月12日、江戸川区にある銭湯「第二寿湯」には、静かな時間が流れていた。1964年創業で、今も昭和の香り漂う浴室に組まれた簡単な足場と壁に立てかけられた脚立。そこで、銭湯ペンキ絵師の田中みずきさんがペンキを塗る時に使うローラーをなめらかに走らせていた。サポートをするスタッフがいたが、ほとんど言葉を交わすこともなく、田中さんはひたすら手を動かす。

銭湯のペンキ絵は、木造の壁の補修も兼ねていて、1、2年に1度の頻度で描き換えられる。その際、もともとあった絵を塗りつぶして、その上に新しい絵が描かれる。下書きもおおまかなものしかなく、ほとんど一発勝負。その緊張感が静けさを生むのかもしれない。

第二寿湯のもとの絵は、昨年3月に田中さんが描いたもの。自分の絵の上に別の絵を描くというのはどういう感覚なのだろう。



ローラーや刷毛を素早く動かす田中さんに、迷いは見えない。時折、壁から少し離れて全体を確認する。そしてまた壁と向き合う。驚いたのは、ローラーで山の稜線など繊細なラインもささっと描いてしまうこと。流れるように動くローラーに思わず見とれてしまう。

作業中の浴室は思いのほか「静謐」という言葉が似あう雰囲気で、田中さんのたたずまいはまるでカンバスと向き合う画家のようだった。その印象は、あながち的外れでもなかった。田中さんは高校時代、美大を目指してデッサンの勉強をしていたそうだ。

銭湯絵師

田中みずき

1983年大阪生まれの東京育ち。明治学院大学で美術史を専攻。在学中の2004年に銭湯ペンキ絵師の中島盛夫さんに弟子入りして修行を始め、2013年に独立。同年、便利屋を営む駒村佳和さんと結婚。現場では、駒村さんに足場を組んでもらうなど2人で協力して仕事をする。現在は銭湯をはじめ、個人宅、店舗や介護施設など全国各地のさまざまな場所でペンキ絵を制作。銭湯の魅力を伝える活動にも力を入れている。ブログ「銭湯ペンキ絵師見習い日記」を逐次更新中。

心を奪われた「銭湯の背景画」

「子どもの頃から絵を描くのはすごく好きで、学校から家に帰ったら自由な時間はずっと絵を描いていました。気づいたら3、4時間経っている感じ。小学生の頃は漫画の絵を真似て描いたりしていましたね。『りぼん』に載っていた矢沢愛さんの絵とか。スタジオジブリのアニメ作品も大好きで、よく描きました。でも展覧会や美術展に行くようになったら面白いなあと思う作家さんがいて、自分でも漫画じゃない美術的な絵を描き始めて」

田中さんが進んだのは、明治学院大学文学部芸術学科。ここでは絵を描くことではなく、美術史を学んだ。方向転換したのは、アートの新しい魅力に気づいたからだ。

「展覧会や美術展に通ううちに新しい機器や技術を使ったメディアアートに興味を持つようになりました。その過程で美術史を調べるようになったのですが、ひとつの作品の背景や歴史を知るだけで、それまで持っていた視点とまったく違う見方ができるようになることに気づいて、それが楽しかったんです」

作品を眺めて、ただ「素敵だな」「面白いな」と思うことから一歩踏み込み、より貪欲にアートを楽しむようになった学生時代。その頃の出会いが、田中さんを銭湯に誘う。

2002年、都内某所で銭湯をテーマにしたアートの展示会が開催された。そこで以前からファンだった美術作家・福田美蘭さんの作品に心を奪われた。「銭湯の背景画」と名付けられた作品は、まさに銭湯のペンキ絵をモチーフにしているのだが、その絵のなかに紛れ込むようにして「マツモトキヨシ」「すかいらーく」「JTB」「リポビタンD」など企業や商品のロゴマークがいくつも隠されていた。それが、美術史を学ぶ学生の心をとらえた。

「銭湯のペンキ絵って昔はよく絵の下に広告が入っていたんです。近所のお医者さんだったりお寿司屋さんだったり。その広告費でペンキ絵が描かれていたという歴史がありました。福田さんはそれをしっかり調べたうえで、ペンキ絵のなかにさりげなく現代の企業のロゴを入れるという作品にされていて、すごく面白かった。その展示会で一番記憶に残った作品です」

師匠との出会い

ほかにも田中さんが好きな美術作家・束芋さんの作品に銭湯をモチーフにしたものがあり、それまで銭湯に足を踏み入れたことはなかったものの、がぜん興味がわき始めた。そこで大学2年生の冬、家の近所にあった1927年創業、都内最古の木造銭湯「月の湯」(既に廃業)に向かった。初めての銭湯は、田中さんにとってアートを感じさせる空間だった。

「もくもくと湯気が立って雲が重なっているような空間で湯船につかっていると、壁に描かれた絵の中に自分が入っているような感覚になって、こんなアナログのバーチャル空間があるんだ!って思ったんです。しかも、誰でも入れる地域に開かれた場所でありながら、そこでしか会わないような人がいる。そういう銭湯のなかだけで流れている時間軸と自分の時間軸が交差してるのも面白かった。なんだここは?って思いましたね」

すっかり銭湯に魅せられた田中さん。1年後、卒業論文のテーマを決める際には、「銭湯のペンキ絵」をやりたい、でもこの案だけだと怒られるかも、ということでお堅い内容の「一遍上人絵伝」を対案にして、担当教授に相談。「面白いから」という理由で「銭湯のペンキ絵」に決まり、ほっと一息ついたそうだ。

卒業論文では、銭湯が多く集まっていた北千住に通い、一軒、一軒の「銭湯のペンキ絵」の歴史や背景を調査して回った。その時に知り合ったのが、当時、日本に3人しか残っていなかった銭湯ペンキ絵師のひとり、中島盛夫さん。実際に銭湯の壁に絵を描く姿を見せてもらった時に、目を奪われた。

「ペンキ絵はどの描き方とも全く違っていて、シンプルに壁の上から下、天井から床に向かって絵を描きます。それはペンキが垂れてきても大丈夫なようにという理由なんですが、前の絵が見えている状態で下書きもないまま絵を描き進めるのが面白かったんです。しかも現場では、中島師匠は踊るように絵を描く方で、銭湯の大きな絵が一瞬一瞬でどんどん変わっていくから目が離せない。朝8時から仕事を始めて18時には描き終えちゃう。一日の終わりには全然見たことのない絵ができあがる。こんな技術はそうそうないですよ」

弟子入りの条件

かつて絵画を勉強したからこそわかる、圧倒的な職人の技。何度か中島さんの現場に通っているうちに「あと100年もしたら、この技術がなくなってしまう。それはもったいなさすぎる!」と感じた田中さんは、2004年、21歳の時に弟子入りを志願した。しかし、返事はノー。弟子になってもこの仕事では食えないという理由だった。

それでも21歳の女子大生は引き下がらなかった。なぜ断られたのか。自分のお願いの仕方がよくなかったのかもしれない。銭湯ペンキ絵の仕事が減っているということが理由なら、別のアプローチをしよう……そう考えて、改めて中島さんに頭を下げた。

「後になって、生活できるようにならなかったじゃないかと絶対に言いません。本当に技術だけでも残したいので教えてください」

田中さんの実直な気持ちが届いたのだろう。中島さんは、ひとつだけ条件を出して、女子大生を弟子に迎えた。その条件とは「別の仕事を持て」。そこでまず、田中さんは大学院に進んだ。そして中島さんのもとで修業を積みながら卒業すると、師匠の指示に従って美術系の出版社に就職した。会社員と銭湯ペンキ絵師の見習い。この二足の草鞋を履いた生活を続けているうちに、田中さんは気づいた。「もっと手を動かしたい」という気持ちに。

「まず、客観的に見て編集の仕事は自分に向いてないんじゃないかと思ったんです。ミスも多かったし、編集の仕事っていろいろな人と関わりながらひとつのものを作っていくんですけど、私は自分で全部やりたいところがあって。しかも不器用なので時間に追われているとインプットができなくなって、面白いアイデアも出なくなる。そのうえ、銭湯の仕事は平日が多いので、修行もできなくなって。その時にもっとひとつのことに集中して、アウトプットしたいと思うようになったんです」

この話を聞いた時に、時間を忘れて何時間でも絵を描いていたという田中さんの子ども時代のエピソードを思い出した。もともとアーティストタイプだったのだろう。

意外な師弟関係

1年半で出版社を辞めた田中さんは、ホテルのフロントでアルバイトをして生活費を稼ぎながら、師匠のもとに通い続けた。はたから見れば、大学院まで出てからフリーターになるなんて大胆な決断に思えるが、もともと何事に関しても「どうにかなるだろう」と考えるという田中さんは「いくつか仕事を掛け持てば食べていけるはず」と楽観的だった。家族も鷹揚で「職人さんが少なくなってるならやってみてもいいかもね。でも自分で暮らす分は自分で稼ぎなさい」と認めてくれた。

修行に集中する時間が持てたことで、「最初の数年間は空しか描かせてもらえなかった」というペンキ絵の腕も上がり、次第にほかの部分も任されるようになった。師弟関係というと厳しい指導を想像してしまいがちだが、実際はどうだったのだろう?

「私も最初はきついこと、無理なことを言われて、それを体力と気合でカバーしていくみたいなことになるのかなって思ってたんです。でも実際は、私がくしゃみをしたら上着を着た方がいいよ、と言ってくださったり、夏場も、脱水症状になっちゃうかもしれないから、我慢しないで好きな時に水を飲みなさいと。優しさもあると思うんですが、時間に限りがあるなかでしっかりと絵を完成させる、そのために体調管理するのも仕事だから、という合理的な考え方も教わっていたように思います」

まさにプロフェッショナル。技術面に関しても、その姿勢が変わらなかったという。

「仕事の現場なので、師匠から一から十まで説明してもらって、じゃあこの通りにやってという感じではありません。師匠に課題を言われて、それを私が描く。それを見てあまりにもダメだと描き足して直してくださったり、隣にお手本を描いてくださったりという流れで学んでいきました。あまりに描くのが遅いと怒られることもありましたけど、理不尽な理由で怒られたことはありません」

田中さんが初めて男湯と女湯、両方の壁の絵を任されたのは修業を始めて7年目。師匠はその日、「見たら手伝ってしまうから」と現場に姿を現さなかったという。

新人を支えた下町の人情


それからさらに2年間修業を積み、師匠から「仕事が来たら受けていい」とお墨付きを得て独立したのが2013年。当初はアルバイトと両立していたが、翌年には銭湯ペンキ絵師として腕一本で食べていけるようになった。

最初に弟子入りを願い出て、師匠から「食っていけないぞ」と言われたのが2004年。それから9年が経ち、銭湯の数はますます減っていた。それなのになぜ、独立したばかりの新人が生活できるほど依頼がくるようになったのか? そこには下町の人情があった。冒頭に登場した「第二寿湯」の三代目で、東京都公衆浴場業生活衛生同業組合の江戸川支部組合長、鴫原和行さんはこう振り返る。

「田中さんがまだお弟子さんだった頃、葛飾とか江戸川を中心に活動されていた大ベテランの早川(利光)さんという絵師がいらっしゃったんです。先代も僕も早川さんの絵が大好きでした。だから早川さんが亡くなった後、新しい絵を誰に頼もうか悩んでね。これからの銭湯の文化を担ってくれる若い方に頼んだ方が将来があるだろう、数をこなしてどんどん腕を上げてもらったほうがいいと思って田中さんにお願いしたんですよ」

鴫原さんはさらに、ほかの浴場主にも「今度、描き換える時は田中さんでお願いできませんか?」と声をかけたそうだ。衰退産業と言われ、高齢化も進む銭湯業界では若者自体が珍しい。21歳からの9年間、黙々と修業を積んできた田中さんが独立した際に、鴫原さんのように田中さんを応援したいという浴場主たちがいたのだろう。

仕事を受けるにあたって、若者ならではの視点も活きた。ある人が「自分のユーチューブに連絡先を表示したら問い合わせが増えた」と言っていたのを知り、田中さんもブログのトップページに電話番号を掲載した。すると、銭湯以外からの依頼がくるようになった。それが飲食店の壁面、ホテルやデイケア施設の浴場の仕事などにつながっていった。銭湯の大きな壁面でも1日で描き上げるスピード感が、ほかの現場でも喜ばれているそうだ。

2015年、ドイツの自動車メーカー、アウディの日本支社アウディジャパンとのコラボレーションで大田区蒲田の老舗銭湯「第二日の出湯」(既に廃業)に描いた富士山とアウディのペンキ絵は、大きな話題を呼んだ。

ペンキ絵の可能性

今では銭湯とそれ以外の仕事を含めて月に4、5件の依頼を受ける。「とりあえず食べていける」という状況はとうの昔に脱し、日本唯一の女性銭湯ペンキ絵師としてその地位を確立したと言っていいだろう。ペンキ絵師の仕事に就いて良かったと思いますか? と尋ねると、田中さんは頷いた。

「そうですね、良かったです。会社勤めだと難しいと思いますが、個人でやることなので、やりたいところまでやれるっていうのがやっぱり自分には向いているんですよね。銭湯の数はしばらくは減るかもしれませんが、まだまだペンキ絵の需要は大きく、このまま続けていけるように頑張ります」

実は、銭湯のペンキ絵は関東圏の文化で、関東以北や西日本の多くの銭湯には絵がない。しかし、田中さんのもとには関東以外の浴場主からも依頼が舞い込む。昨年も、愛媛県の老舗銭湯のオーナーから「地元の海と畑の風景を描いてほしい」と依頼がきたそうだ。

どこか懐かしさを感じさせるペンキ絵を求める人は、きっと全国にいるはず。保育園や幼稚園、学校、病院やオフィスの壁にあっても喜ばれそうだ。

「稼げなくてもいい。技術だけでも残したい」と訴えて弟子入りしてから15年。子どもの頃と同じように絵を描くことに没頭する日々のなかで、田中さんはペンキ絵の可能性を拡げ続けている。

インタビューの最後に、何か目標や夢はありますか? と尋ねたら、すごく照れくさそうに「いつかスタジオジブリとお仕事ができたら嬉しいです」と呟いた。

田中さんをはじめ、6名の作家が浴場にアートな暖簾を展示!
文京の湯 アートのれん展
2018年9月29日(土)~12月16日(日)
詳細はこちら

ライタープロフィール
川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て現在フリーランスエディター&ライター&イベントコーディネーター。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。

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