手作りのピーナッツバターからスタートした、「日本代表」ディレクションの道。HAPPY NUTS DAY中野剛インタビュー【前編】

書き手 小野民

写真 武藤奈緒美

手作りのピーナッツバターからスタートした、「日本代表」ディレクションの道。HAPPY NUTS DAY中野剛インタビュー【前編】
スケーターの兄ちゃんたちが作った、おいしいピーナッツバター。オーバーオールにスケボーといういでたちのキャッチーさと、上質のピーナッツバターのギャップが評判を呼び、「HAPPY NUTS DAY」のピーナッツバターは、あっという間に知る人ぞ知る人気商品となりました。

現在、HAPPY NUTS DAYの代表を務める中野剛さんは、会社立ち上げ当時広告代理店勤務。「仲間と集まる口実」として千葉の九十九里に通い、家庭用のミキサーでピーナッツバターを作り始めたといいます。

会社設立から5年、ホームページで「代表あいさつ」をする中野さんは、白シャツでピリッと決まっています。佇まいの変化の裏にある想いを知りたいと、東京オフィスを訪ねました。

HAPPY NUTS DAY 代表取締役/クリエイティブディレクター

中野剛

1985年東京生まれ。スケートボードの為に入学したNYの高校、山奥での自給自足生活から帰国後、多摩美術大学、広告代理店を経て、ピーナッツバターブランドHAPPY NUTS DAYの代表兼クリエイティブディレクター。メンズヘアサロンOCEAN TOKYOのクリエイティブディレクターを務める。2018年9月、日本の持つ価値の高さを体現するブランディングを行う「Brand And Creative Agency」を立ち上げる。

好きなこと:スケートボード、サーフィン

スケボーもアートも、言葉のいらないコミュニケーションが道を拓いた

──中野さんは、「ピーナッツバターの人」というイメージで世の中には認知されていると思うんです。でも、そこに至るまでの過去も興味深いし、すごく人気のピーナッツバターを作ったその先の目標もあるだろうし、きっといろんなことを考えていらっしゃるのかな、と。

まずは、中野さんのHAPPY NUTS DAY以前のお話を聞かせてくださいますか。

中野
池袋で生まれて、学校にもろくに行かずにスケボーばかりやっていました。「スケボーといえばアメリカでしょ」って、アルバイトで貯めたお金でアメリカの高校に留学をしたのが、最初の転機だったかもしれません。

英語も全然しゃべれなかったけれど、スケボーのおかげで友達はすぐにたくさんできたんです。スケートパークに行けばスケーターたちがいて、仲間になっていろんなところに連れていってくれました。言葉を介さないコミュニケーションがあることを、そのときに初めて知りましたね。

ただ、僕が留学したニューヨーク州の田舎はすごく寒かったんです。現地の気候を全く予習していなかった。秋の渡米後すぐにスケートパークは一面雪に覆われて、スケボーをすることはすぐにできなくなってしまいました(笑)。

丘の上にある高校の寮に住んでいたんですが、スケボーもできず、積雪のおかげで街へ出るのも一苦労。お金もなかったので暮らしていた寮の部屋で、デッサンをしてみたんです。そこで、絵を描くっておもしろいんだと気づきました。

ちなみに、僕が行っていた高校は、アメリカ中から退学させられた子たちが来る最後の砦みたいな学校だったんです。全然下調べもしていなかったので、「高校ってこんなに簡単に入れるんだ」って思っていたらそういう事情があった。

──かなり行き当たりばったりです(笑)。

中野
本当に(笑)。学校にはいわゆる不良だけでなく、メンタルの問題で普通の学校に合わなかったり、すごく個性的だったりする子がたくさんいる感じ。絵ばかり描いている子の様子も見ていたので、絵を描き始めて「自分の絵がスケボーになったら超最高じゃん」、「俺はスケボーのデザイナーになる!」と思ってしまった。すごくせまいジャンルのデザイナーを目指しはじめました。

──まっすぐで素晴らしいです。

中野
そこからは紆余曲折を経ながら、日本に帰ってきて多摩美術大学に入学しました。その頃は「どこの国の人ともコミュニケーションがとれるクリエイターになるぞ」と思っていました。

でも、大学3年生で細かく選考を選ぶ段階になって、何を選考するか絞れなかった。それで休学して1年くらいニューヨークシティに暮らしていました。

そしてある日、ニューヨークの真ん中ともいえるSOHOエリアのど真ん中に、カタカナで「ユニクロ」って旗が掲げられているのを見たんです。近くには同じ価格帯の「H&M」だったり、「OLD NAVY」だったり、「American Apparel」もあるけれど、おしゃれな人たちが、カタカナでユニクロって書かれた紙袋を持っているのを見たときに、日本人としてすごく誇らしい気持ちになったんです。

僕は「これがやりたい」と思った。ちょっと話が戻っちゃうんですけど、アメリカの高校に留学するときに憧れの先輩から、「この先お前が出会う外国人達にとっての日本代表はお前だからね。そのつもりで世界に行ってこい。」と言われたことが強烈に胸に刺さって。

その頃から、「日本代表」という言葉への強烈な憧れが始まりました。そして渡米後の「ユニクロ」の旗を見た時の衝撃。その2つが繋がって、「日本代表のクリエイティブディレクター」を目指す道を決心して帰国して、大学ではアートディレクションを専攻しました。

日本の魅力を世界に発信できるようなディレクションをしたい。ディレクションで日本代表になってやろうと決めたんです。

社会に出たのは、4浪とか5浪している年齢だったので、傍から見たら遠回りだったかもしれません。

世界で活躍できる日本代表のディレクターになるための第一段階として、まずは日本のお茶の間にメッセージを伝える術を勉強しようと思って、日本の広告代理店に入りました。「4年くらいで辞めます。日本代表として世界に挑戦していきたいから」と入社するときから話していました。

「ピーナッツバター作ろうぜ」は遊ぶ口実に過ぎなかった

──千葉の九十九里でHAPPY NUTS DAYは立ち上げられたわけですが、わざわざ「千葉」で、「ピーナッツバター」っていうのがおもしろいです。

中野
もともとは仲間で集まるための口実のひとつにしか過ぎなかったんです。「スケボーやろうよ」「サーフィンやろうよ」と一緒で、「ピーナッツバター作んなきゃいけないから集まろう」と。

──「ピーナッツバターが集まる口実」って、なんて微笑ましい響きなのだろうと思います。

中野
あはは。でも、スケボーやって、ビール飲んで、バーベキューやって、ピーナッツバター作りに到達しない(笑)。

だからスタートはすごくゆっくりだったんですけど、はじめは「お前らに何ができるんだ」ってボロクソ言ってきた農家のおじいさんが、ピーナッツバターが売れ出して「な、うまいだろう、うちの落花生」って今は自信たっぷりに話してくれる、みたいな変化がすごく嬉しかった。千葉のお土産の定番になってきて「いつも買っています」って伝えてもらうことも増えて、誇りに思ってもらえることが喜びになっていきました。

──日本代表になるという大きな目標があって、第一段階が「お茶の間に届けるクリエイティブ」を学ぶことでした。その後、中野さんがHAPPY NUTS DAYの代表になったことは、第二段階という位置づけなのでしょうか。

中野
そうですね。2015年に広告代理店を辞めて、HAPPY NUTS DAYの代表になりました。規模が大きくなってきて、いざしっかりやっていくぞ、となったときに代表に手を挙げたのが、僕だけだったんですよね。

ディレクションって和訳したら「道しるべ」じゃないですか。

──そうなのですね。言われてみればなるほどですが、考えたことがなかったです。ディレクションはディレクションだとカタカナのまま理解していたというか……。

中野
道しるべだと思うと、ディレクションってすごく責任のある仕事です。クライアントの会社としての命運をも左右するんです。

そう考え出すと、広告代理店でのクライアントとの広く浅い関係性に違和感を覚えてしまうようになりました。それで、この環境は僕が目指す方向に向かっていないなと感じて、広告代理店を辞めることに決めました。

中野
それで思ったのが、一度自分がクライアント側の立場としてメーカーの経営者になるのがいいのでは? ということ。自分が代表権を持って、経営者がぶつかる壁、苦難を実体験することで、今後のディレクションの精度を格段に上げられると思いました。

それで、せっかくHAPPY NUTS DAYも走り始めていたし。俺、農家でもないし、千葉の人間でもないけれど、代表をやらせてほしいって言ったんです。

道標として、それで人は動かせる?とシビアに問う

──経営者になって、3年くらい経って変化はありましたか。

中野
変化は……あったと思います。

クリエイティブディレクションには、いろんな種類があります。大きい予算で、NIKEみたいなかっこいい広告を作ることもあれば、経営者さんの横に立って、一緒に事業計画を立てるようなタイプもある。だから、僕の仕事を他と比較はできないですけれど、確実に精度が上がった気はしています。

たとえばこの間、小泉進次郎さんが発起人の「グローバルファーマーズプロジェクト(GFP)」というプロジェクトのロゴマークのアートディレクションをやらせていただいたんです。このプロジェクトはいわば、「日本の生産者さんを世界に輸出する」もの。

久々に外注の仕事をやってみて、しかも短時間の制作だったんですけど、「あ、レベルアップしている、自分」と思えた。僕は落花生農家さんの畑に行ったり、何度も話したりして実感していることがきいているんだと思うんです。

たとえば落花生業界でいえば、落花生の生産は10年前と比べても大幅に衰退している、自分自身も千葉県産の落花生を使っているメーカーの代表として、原価高騰に直面している。いろんな現場のリアルを見ているからこそのディレクションが、以前よりはできたんじゃないかと感じています。

──現場のリアルを知ったからこそのディレクションとは、アウトプットにはどういう風に影響するのでしょうか。

中野
うーん。そうですね……。GFPには、農林漁業者と弊社のような食品業者も関係するんですが、当事者が「なんて言ったら動いてくれるか」というところを、考えられるようになってきたと思います。

──たしかに、実際に動くことこそ一番大事ですもんね。

中野
世の中には、「余計なお世話」だったり「お門違い」になってしまっている地方創生のプロジェクトも多いです。「そんなこと言っても、それじゃあ生産者さんの心には刺さらない」みたいな例もたくさん見ています。

これからは、地方のブランディングの仕事もどんどん受注していこうと思っています。一例として、ピーナッツバターのブランドを一生懸命やったことで、行政とも関わりができてきた状況があります。

もともと千葉県産落花生を使用したピーナッツバターは、道の駅などでは売られていたんですよ。いわゆるガラス瓶に和紙のラベルで「千葉県産落花生使用」と。

──直売所でよく見る、作った人の名前があるやつですね。

中野
はい。以前、うちのピーナッツバターについて行政の方々に、「なぜそんなに売れるのか」と尋ねられたんです。その際に、デザインとコミュニケーションの話をしたらとても興味を持っていただけました。「他の産物や地域も輝かせる気がしてきた!」って。

その反応を受けて、地域のポテンシャルを引き出すプロジェクトを企画しています。いままで、地方の行政に対していろんなコンサルティングだったり、ブランディングだったり「先生」が入ってきてやってきたらしいんですけど、長く付き合えずかたちにできないことも多い。

地方からすると、コンサルティングやブランディングという得体の知れない存在への疑いの目は強い。それよりも、「あのピーナッツバター屋」として顔を出すことの方が話が通じやすいんです。

──たしかに。「コンサルティングの人」じゃなくて「あのピーナッツバター屋」となる。

中野
そうなんです。これは、僕も予想していなかったんですけど。まだまだ小さい信用ですが、ここからクリエイティブ産業革命を起こせるようなきっかけを作っていきたいというのが大きな目標です。

僕自身も、ずっとHAPPY NUTS DAYだけに注力するつもりではなくて、いま、次のフェーズの準備をしているところです。デザインコンサルティングの会社を9月に立ち上げたところなんです。

後編では、この秋中野さんが立ち上げた新しい会社について、「仲間と働くこと」についてうかがいます。
後編「ヒーローごっこだからがんばれる。ビジネスは仲間たちと夢を見る舞台。

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