2016.12.06

みんなの気持ちは、みんなにはわからないから。

代表取締役社長 青木耕平
みんなの気持ちは、みんなにはわからないから。

下のツイートがぼくのアカウントとしては過去にないくらい沢山RTされたり、ファボられたりした。先日コルクの佐渡島さんと話していた時に、言われたことをそのままツイートしただけなのに、こんなにたくさんの人に共感してもらえて、オマケにフォロワーもいつになく増え、恐縮しています。

でも、この言葉がぼくにとってはなかなか面白く、今まで自分になかった視点だったので、週末もずっとこのことの意味と、自分でこれまで考えていたこととの関係についてなどを考えてきた。

確かに考えてみると「みんな(=一般の人)」の気持ちを想像して、世の中の大多数の気持ちを動かすようなコンテンツをつくることは、本当に一部の限られたクリエイターにしかできなさそうなことだ。

例えばマンガで言うと「ドラゴンボール」や「ワンピース」というような国民的ヒットはそもそもが少ないし、そんなものを生み出だすには相当の才能が必要だろうことは想像に難くない。

じゃあ僕はなんで「一般の人に近い人(=読者に近い人)」を集めてコンテンツを作ろうしてきたのか?

思いかえすと理由は幾つかあるのだが、まず第一は

一流のクリエイターをあつめて仕事をすることが僕にとって非現実的で再現性がない。

ということが最も大きいと思う。

一流のクリエイターがサスティナブルに見つけられて、かつ仲間になってくれるような事態を、僕は経験したことがないし、よってそんなことが現実に起こるなんて想像すること事態が難しい。

なのでもちろんそういうことが起きたら素晴らしいが、現実的には「その手はない」という制約事項を所与のものとして受け入れることから考え始めることになる。

その思考の結果として「一般の人に近い人(=読者に近い人)」と一緒にコンテンツをつくって、成果において「一流のクリエイター」に近い成果を安定的にあげる方法らしきものを編み出してきた、ないしは編み出そうとしてきたと言えると思う。

なので「みんな(=一般の人)」の心を動かすコンテンツを、ほとんどの「みんな(=一般の人)」にはつくることが難しいという前提は、よく考えてみれば佐渡島さんと共有している。

じゃあ、

本当に「みんな(=一般の人)」が「一流のクリエイター」に近い成果を安定的にあげる事が可能なのか?

というのが次の論点になると思うのだが、僕としての現時点での結論は「全体」的に勝つ事は難しいが局面を限定することで「局所的」に勝つことは出来るだろうというものだ。

どのようにするか?

確かに「みんな(=一般の人)」を理解し、喜んでもらうことはとても難しいが、それに比べると「じぶん」を理解し、「じぶん」を喜ばせるものをつくることは相対的に容易である。

なので僕らは自分たちの作るものの対象者を「みんな」ではなく「じぶん」に似た人に限定する。そして「じぶん」に似た人を採用し、その人たちに「みんな」を喜ばせるものをつくることを目指させるのではなく、「じぶん」がお客様だったら喜びそうなものをつくることを目指してもらう。

その結果として「じぶん」に似ている人たちに限定して考えると、「一流のクリエイター」が作った「みんな」に向けてつくったものに勝る感動や共感を、与えられることを目指すのだ。

「じぶん」を理解することで「じぶん」に似た「みんな」を理解し、その人たちを喜ばせるものをつくる。これがぼくらの基本的なスタンスだ。

そして極論を言えば「じぶん」も「みんな」も「にんげん」である以上、「じぶん」の中には「みんな」と同じ部分が沢山あるのだから「じぶん」に似た人だけに、、と思って作ったものの中に、たまたま普遍的な共感を呼ぶものがあるだろう。そういうオマケみたいな成果もまんざら期待できないわけではない。

ただ「じぶん」を知るというのも深めていくと中々に難しいことだ。

「成果が出るほどに「じぶん」を知れたら、それが一流ってことですよ!」ってことなのかもしれないが、少なくとも僕ら凡人には雲をつかむような「みんな」を考えるくらいなら「じぶん」というインタフェースを通じて「みんな」という集合意識にアクセスする方がまだ可能性があるだろうというのが、現時点でのぼくの考えだ。

以上ごちゃごちゃと書いてきたが、ぼくと佐渡島さんのスタンスの違いは

1)一流のクリエイターへのアクセスの難易度が違う

2)対象としている受け手の幅が違う

佐渡島さんたち→「みんな」
僕たち→「じぶん」に似た「みんな」

という保有リソースとそれに起因した対象設定の違いによって生まれてるんじゃないかというのが、現時点での結論なんですけど、佐渡島さんどうですかね?