始まりは雑居ビルの3階。世界でKawaiiムーブメントが起こる、ちょっと前のお話。増田セバスチャンインタビュー前編

書き手 編集スタッフ 馬居

写真 木村文平(7、9枚目除く)

始まりは雑居ビルの3階。世界でKawaiiムーブメントが起こる、ちょっと前のお話。増田セバスチャンインタビュー前編
先日出版された『世界にひとつだけの「カワイイ」の見つけ方』(サンマーク出版)の作者、増田セバスチャンさん。

増田セバスチャンさんといえば、23年前にオープンした原宿のカリスマショップ「6%DOKIDOKI」のプロデューサーでありながら、きゃりーぱみゅぱみゅの「PON PON PON」「ファッションモンスター」など、彼女の初期のミュージックビデオの美術演出を担当。

近年では、来客数30万人を突破した原宿の新スポット「KAWAII MONSTER CAFE」のプロデュースや、サンリオピューロランドの25周年記念パレード「Miracle Gift Parade」をアートディレクション。そのほかにも、CM、映画、PVなど、原宿発のKAWAIIカルチャーをベースにカラフルな作品を世に生み出しています。

また、NYを中心に海外で個展を開催、国内でも、銀座のポーラミュージアムアネックスで公開されたクロード・モネの「睡蓮」をモチーフにした作品に2万人が訪れるなど、アート活動も話題です。

そんな風に、今ではアーティスト、アートディレクターとして大活躍の増田さんですが、元を辿れば、原宿の小さなお店のオーナー。

有名な美術大学出身というわけでもなく、大きな会社に就職していたわけでもない、まさにストリート出身の増田セバスチャンさんが、いったいどのように世界を巻き込んだ「原宿カワイイブーム」の立役者となったのでしょうか。

今回、うかがったその歩みは、クラシコムジャーナルのテーマでもある「フィットする仕事」を常に探求するような道のりでした。

アートディレクター/アーティスト

増田セバスチャン

1970年生まれ。京都造形芸術大学客員教授、ニューヨーク大学客員研究員、2017年度文化庁文化交流使。 演劇・現代美術の世界で活動した後、1995年にショップ「6%DOKIDOKI」を原宿にオープン。 きゃりーぱみゅぱみゅ「PONPONPON」MV美術、「KAWAII MONSTER CAFE」のプロデュースなど、原宿のKawaii文化を中心に作品を制作。 2014年よりニューヨークを中心に個展を開催。2020年に向けたアートプロジェクト「TIME AFTER TIME CAPSULE」を世界10都市で展開中。先月、7年ぶりの新刊世界にひとつだけの「カワイイ」の見つけ方(サンマーク出版)を発売。

好きなもの:ドラえもん

大道具として働きながら、25歳でカリスマショップをOPEN

──増田さんは、ファッション、アート、エンタメと、様々なことに関わられていますが、一番最初にお名前が世に知られることになった原宿のお店「6%DOKIDOKI(ロクパーセントドキドキ)」はどういった経緯で生まれたのでしょうか。

1995年、25歳の時にお店を始めたんですが、その時は「mama」っていう、パフォーマンスやアートをやる劇団というか、クリエイティブ集団みたいなものを作っていて、その活動の延長線上でしたね。

ですから、最初は、自分の周りの面白い人たちの作品を売ったり、L.A.で買い付けた自分がいいな!と思うものを売ったり。

──表現活動の一貫だったんですね。

そうですね。まあ、お店といっても、原宿にある雑居ビルの3階の一室で、普通はオフィスに使うようなところだったんですけどね。

今は、そういうお店もたくさんありますけど、当時「お店を開く」って、お父さんが頑張ってお金を貯めて喫茶店を開くとか、全部を投げ打って始めるっていう感覚で。若い自分のような世代が、マンションの一室をお店だって言い張るっていうのは、珍しかったと思います。

まあ、そんな場所だから、最初はお客さんも来ないし、売れないし、ただ、友達が遊びに来るだけなのがずっと続いていて、夜はアルバイトをして食いつないでいました。

──お店と並行してアルバイトをされていたんですか?

一年半くらいは、お店のオープン前からやっていた大道具のアルバイトを閉店後にしていました。

──大道具のアルバイトは、お店を始める前の演劇活動をしながら始められたということですね。

そう。もともと、20歳で寺山修司に憧れて、演劇の世界に足を踏み入れたんですが、最初は、あまりに何もできなくて。

周りの子は、みんな同世代なのにすごくわかっていて、テキパキ動いていて、でも自分は何もできない人なんだということに直面して、やばい!と思ったんです。

それで、大道具募集っていうチラシを見つけて、舞台を勉強したいんですって電話をしたら、劇団出身の人がやっているところに入れてもらえて、働くようになりました。

──どんなところで大道具の仕事をされていたのですか。

最初に行かされたのは、新橋演舞場。あとは、歌舞伎座とか。

歌舞伎の現場は、昔の用語がそのまま使われているから、とにかく言葉がわからなくて。たとえば、「箱馬(はこうま)持って来い!」とかいわれても、それが何なのかわからない。それで怒られる。怒られるのが怖いから一生懸命覚えて…という繰り返しです。

あとは、NHKホールでも働いていたので、歌謡コンサート、ふたりのビックショー、のどじまん、そして紅白の舞台も作っていました。ここでも、やっぱりたくさん怒られて。当時はワイルドな時代でしたからね。

──それでも続けられたんですね。

そんな怒られてばっかりの仕事、正直嫌いでしたけど、劇団という小さなコミュニティの中で、何もできない人でいるのはすごく嫌だったし、いつかは自分で劇団を立ち上げたいという目標もあったから頑張りました。

大道具だけじゃなくて、舞台については全部を知りたいと思っていたので、照明さんのところに行って、「これどれつけるの?」っていったり、音響さんのところに行って、「この機材は何?」とか聞いてみたりして。職人さんて、聞かれると「お、興味あるのか」とかいって喜んで教えてくれるから(笑)

そのほかにも、日舞とか、松竹系の和の舞台は一通り関わりました。今思えば、最初にそういった古典の舞台を勉強できたっていうのは、僕にとって大きかったですね。

これぞ東京クレージー!海外セレブから火がついた

──それで、大道具のアルバイトをしながら、6%DOKIDOKIを始めたわけですね。

まあ、すごく単純に、大道具のアルバイトをそろそろやめたいなとも思っていたんですよね。大変ですし。お店で物を売って、それが売れたら、座ってるだけでお金が稼げるじゃん、アルバイト辞めれるじゃんて。

結局しばらくは全然売れないから、アルバイトも辞められなかったんですけど。でも、売れなくても、どうしよう!とか全然思っていなくて。そもそもビジネスをやろうと思って始めていないので。

役者も売れるまでは、バイトしながらやるもんだし。オーディションとかに行ってもお金は稼げませんしね、そんなもんかなって思っていました。

──それが、どういった契機で変化したのですか?

たまたまお店を訪れたソフィアコッポラ*が、なんて東京らしい!他のお店にはない品揃えだ!って雑誌で褒めてくれたんですよ。まあ、そりゃ、他のお店にはないものばかりですよね。なにしろ、普通の問屋さんには相手にしてもらえなかったから。

*編集注 ソフィアコッポラ・・・アメリカの映画監督。東京を舞台にした『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)で一躍注目を浴びる。

それで、あの頃は、雑誌がすごく強い時代だから、そこからガンガンお客さんがくるようになって、あっというまに商品が無くなって。じゃあ、また商品を仕入れないとってL.A.に行って。多い時は年に10回くらい買い付けに行ってましね。

──ずっと増田さん自ら買い付けをされていたんですね。

そうですね。お店はスタッフに任せて、自分は買い付けに行ってました。

当時、原宿にはホコ天もあったから盛り上がってたし。でも、1998年にホコ天がなくなっちゃって。なので、それと同時期に、渋谷のパルコクアトロにお店を出しました。

そこには、クラブクアトロに出演する海外アーティストや、それを観にきたセレブがたくさんいたので、それも海外のお客さんに知ってもらうきっかけになったんじゃないかと思います。

ピークは全国40店舗。セレクトショップからオリジナルブランドへ

渋谷パルコへの出店をきっかけに、いろんなお店から出店してくれって言われるようになって…。結局、ピークの時は全国に直営店が5店舗。40店舗くらいに商品を卸していました。

──その時は商品はオリジナル商品を扱っていたのですか?

そうですね。オリジナル商品とインディーズブランドを集めて販売していました。

オリジナル商品を作るようになったのは、買い付けに行く場所がL.A.から韓国に変わったのが大きいです。L.A.の問屋の韓国人に、これ韓国で作ってるのになんでわざわざL.A.で買うの?韓国は日本から近いじゃんて言われて。

それがちょうど、2001年の9.11の時期とも重なって、アメリカからはしばらく足が遠のいて、韓国で買い付けを始めました。

でも、韓国の市場に売ってるものって、ちょっと惜しいんですよね。もっとこうすればいいのになって思うことが多かったから、試しにこういうのって作れるの?って聞いたら、できるよってなって。そこから、韓国でオリジナル商品を作るようになって、10年間くらい事務所も置いて作っていましたね。


日本語をモチーフにしたオリジナルアクセサリー


オリジナル商品はどれもとても個性的

最初は韓国語もわからなかったけど、冬ソナを観て勉強しましたよ。

──冬ソナ、確かにその頃流行っていましたね(笑)韓国語を勉強して、ご自分で商品開発の指示をしていたと。

そうです。それは、今も同じなんですけど、海外で物を作ろうってなると、普通はエージェントとか、間に人が入るじゃないですか。アメリカでも韓国でも経験したんですけど、どうにもボラれている気がしてしまって。

だから、直接取引をしたくて、英語も覚えたし、韓国語も、中国語も。

──全部ご自分で何とかされるんですね。

途中からスタッフが入ってくれましたが、基本的に物が生まれる過程は全部見たいし、コントロールしたいんですよね。ものが生まれる時って、いきなり生まれないじゃないですか。手を動かす人が他の人でもいいし、間に誰かが入って来てもいいんだけど、自分が工程を全部チェックしたい。

ぬいぐるみなら、中に入ってる綿から把握しておきたいタイプなんです。

そう考え見ると、舞台もそうですね。裏側を全部知りたかった。

だから、本当は8時間寝るのとか怖いんですよね。何かが起こるかもしれないじゃないですか。2時間起きて、2時間寝るとかしたいタイプ。

──それで、夜中にアルバイトしてお店を運営してというのも、つらくなかったんですね。

いや、それはつらいですよ。疲れるのは疲れるもの(笑)

全国店舗は強制終了。原宿1店舗をメディア化し世界に発信

──40店舗にまで広がっていた卸も、全国の直営店も、2005年ころには、原宿のお店以外全てをやめてしまったんですよね。それはなぜですか?

どんどん拡大していってる間は、自分は普通の人よりはビジネスがうまいのかなって思ってたんですけど…地方の社長さんとか、経営を本気でやってる人にたくさん会う中で、自分は会社の経営者というよりは、商店街のファンシーグッズ屋の店主くらいのレベルだって気づいてしまったんです。

その上で、じゃあ、何なら、メジャーレベルというか、一線で戦えるのかって考えたら、物を作ることだって思って。それで、原宿のお店以外は全て撤退して、原宿のお店も今ある位置に移転してリニューアルをしました。

──どんなリニューアルをしたんですか。

基本的にコンセプトは同じなんですけど、広くではなく、深く追求しようと思ったんです。そこで、いろんな制度を作りました。そのひとつがショップガールです。

店員を、普通の売り子としてではなく、お店を体現して、発信できる子達にしようと。

──確かに、今でもショップガールさんたちのインパクトはすごいです。でも、発信といっても、当時はまだSNSも盛んではない時ですよね。


現在は、男性のショップボーイさんや海外出身のショップガールさんも。

そうですね。インターネットはもちろんあったけど、ブログを運営してるお店すらほとんど無くて。当時はまだガラケーだし、日本でブログを読むのはパソコンを持っている人たちだけだったし。

思えば、あの頃、ショップガールの顔もいつも横から撮ってたんですよね。

──なぜ、横から?

まだ、自撮りを公開する文化がなかった時代だってことですよね。当時、女の子の正面画像をウェブに出したら、変な出会い系の写真として使われちゃったりして。素材が少ない時代でしたから。

まあ、そんな時代でしたけど、お店の子達が発言する場所を作りたくて。お店を一つの作品というか、メディアにしてメッセージを発信していこうと思ったんです。

もう一つ、発信という意味では、ショップガールたちを舞台に上げましたね。

──舞台?

「ヴィジュアルショー」と銘打って、ショップガールと一般公募の女の子を、演劇ともファッションショーとも言い切れない、僕が演出する舞台に立たせたんです。2005年から3回、「不思議の国のアリス」「人魚姫」「千夜一夜物語」がモチーフで。テーマはいつも同じで、さまよう女の子が、本当の自分を探すお話です。

──舞台からお店になって、また舞台に戻られたんですね。

あの時僕は35歳で。今やらなきゃもうできなくなるって思ったんですね。周りにまだ20代の子達も多かったし、家庭とか、仕事とか、そういうものを気にせずにみんなでチャレンジできる最後の時だと思って踏み切りました。時代的にはmixiが流行っていた頃で、そこでの演劇時代の仲間や先輩たちとの再会も後押ししてくれました。

Kawaiiブーム前夜。世界で、あの時、何かが起こっていた。

そのあと、ショップガールたちは、サンフランシスコで行われたJ-POPサミットでも舞台に上がって。

──海外へ進出ですね。それはどういったきっかけですか。

2007年に、当時流行っていたMy Spaceに6%DOKIDOKIのページを作ったら、海外にたくさんファンがいるということがわかって。いつか海外で何かをしたいなと考えていた時に、2009年にサンフランシスコでスタートする「J-POP SUMMIT」というイベントに協力してくれないかと誘われたので、じゃあ、行く!ってなって。

そこでの反応がすごかったので、じゃあワールドツアーにしようと、翌年の2010年にショップガールと数人のスタッフを連れてヨーロッパやアメリカを周りました。

──ワールドツアー!

といっても、自分たちでMy Spaceにワールドツアーしようと思うということを投稿して、手を上げてくれた国の子を訪ねて周るっていうものなんですけどね。一番最初に手を上げてくれたのが、フランスの子だったから、じゃあ、フランスから行こうって。

基本的には、現地のファンの子が訪れる場所もアレンジしてくれて、フライヤーも彼女たちが印刷して地元のクラブとかに置いてもらって。

お金もなかったから、自分たちでスーツケースに6%DOKIDOKIの商品を入れて、その商品を売ったお金で次の国に行くっていう。当時はまだUberもない時代だから、電車を乗り継いで、レンタカーを走らせて。Airbnbもないから、ワンルームマンションにみんなで雑魚寝して、近くのパン屋さんで食パンとハムとチーズを買って過ごすみたいな。今思うと、よくやったなぁと思うんですけど。

普通だったら、コーディネーターがやるようなことを一人でやったんですよね。英語もそこまで上手にしゃべれるわけでもなのに、心意気だけで。

でも、行けばみんな盛り上がってくれる。そこで、初めて6%DOKIDOKIや、日本のカルチャーに触れる人も多くて、そのコミュニティがどんどん膨れ上がっていくんです。何かが起きてる感はすごかったんですよね。

今、世界各地で「Kawaiiコミュニティ」の中心となっている子たちは、みんなその時に知り合いました。

──世界各地にKawaiiコミュニティがあるんですね。

そうですね。コスプレやアニメじゃなくて、日本のファッションが好きな子達です。

J-POP SUMMITの前年、2008年に下見でサンフランシスコに行った時は、まだコスプレっていう言葉すらきちんと理解されてないような時だったんですけどね。

当時のコスプレは、見よう見まねで、アニメの格好をして街を行進したりするんです。そして、「こすぷれー!こすぷれー!」って叫んでるんですよね。コスプレの意味がよくわかってないから、「トリック ア トリート!」みたいなかんじで、こすぷれー!って叫んじゃう。

僕たちも、それを真似て「はらじゅく、かわいいー!」って叫びながらパレードをしたりしました。

──Kawaiiよりも先に、コスプレはアメリカに浸透し始めていたんですね。

そうですね。マリオとかのゲームキャラとか。あとは、セーラームーンとか、亀仙人とか。

──「ドラゴンボール」の亀仙人ですか?

そう、亀仙人。真似るのが楽だったのかな。どの都市に行ってもセーラームーンと亀仙人がいた気がする。特に、アトランタに行った時は、亀仙人ばっかりだったんだよね。


「悟空もいました!(笑)」とスタッフからツッコミが。

当時のアメリカ人は、アニメというよりも、英語で出版された漫画を読んで日本のカルチャーに触れる人が多かったから、すごくメジャーなものが多かったですね。一方、フランスは、普通に日本のアニメがテレビ放映されていたから、人気の作品はまた違ったりして。

同じように、Kawaiiコミュニティも国や地域によってファッションの輸入のされ方が違うので面白いですよ。

 

後編では、きゃりーぱみゅぱみゅのデビューを契機にさらに世界へと活躍を広げる一方で、自身の表現に対する様々な葛藤が訪れます。

後編「アートは高級家具じゃない

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