情報はいらない。未来も語るな。必要なのは「希望」である──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 後編

書き手 長谷川 賢人

写真 木村文平

情報はいらない。未来も語るな。必要なのは「希望」である──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 後編
雑誌『WIRED』の元編集長で、現在は黒鳥社(blkswn publishers)を設立した若林恵さんと、クラシコム代表の青木による対談の後編です。

前編では、メディアを通じた「書く/作る」ということへのスタンスから、編集者が社会に提示できる価値などの話が広がりました。後編はお互いが思う「情報」との接し方を入り口に、ふたりの話題は「希望を語る大切さ」へと及んでいきます。

アウトプットなき情報は自家中毒を起こす

若林
青木さんって、最初からメディアがやりたかったんですか?

青木
いや、僕は「何がやりたい」とか本当にない人間で。妹が「やりたい!」というお店を経営者として手伝うところからスタートしていて、今は僕だけじゃなくてみんなで幸せになるにはどうすればいいのかなと……それだけです。

若林
僕もね、「若林さんって何やりたいんですか?」と聞かれても、「別に」って。

青木
その質問、困りますよね。

若林
別にないんだよ。

青木
質問にあらためて応えると、僕はコンテンツの異常な消費者であることには変わりないです。本もたくさん読んで、アニメも映画も観て、NetflixからAmazonから起きている時間中は何かしらのコンテンツに触れていて。ありとあらゆるコンテンツを浴び続けて外圧を与えないと、自分自身の内側からの圧力が強くて破裂しちゃうみたいな人間なんです。

若林
それって、世代的な病気なんですかね? 僕ら世代はインプットが足りないやつは悪だっていう世界観が強かったじゃないですか。

青木
おそらく、そうです(笑)。聞いてもわからないアーティストのCDをわかるように一生懸命聞くとか、3ページで眠くなる本を必死に読むみたいな、謎の行動があった。

若林
それに対しての僕なりの仮説は、『ぴあ』と「リクルート」に根源があるんじゃないかと。ぴあで情報を消費するほど、就職のときには自分を高く売れるかもしれないという構造だったんです。つまり、かつては情報消費の目的に「市場価値」をつけるというアウトプットが存在していたわけです。

最近、僕がすごい問題だなと思うのは、イベントに登壇したときの質疑応答で「若林さんはどうやって情報を取っていますか?」なんて聞かれること。僕は新聞も読まないし、テレビもウェブも見ない。世の中で何が起きてるのか全く知らないし、「情報は取ってません」って答える。そう聞いてくるひとのほうがよっぽど情報を取っていると思いますよ。

取っているんだけども、「何のために取り、どう使ったらいいのか」がわからない。だから、いくら情報を取っても何のリターンもない。要は自家中毒を起こしてるだけなんですが、それを「情報が足りていないせいだ」と思っちゃってるんですよね。一種の依存症。

青木
僕もコンテンツをたくさん浴びているんですけど、そこにいわゆる「情報」は全然ないなと思います。

僕がよく例に取るのは、天気予報を見ていたら、レポーターが「今日は梅雨の中休みですね」と言っていたときの話です。この「梅雨の中休み」の言葉の意味は、梅雨を体感してない国に生まれた人でもなんとなくわかっても、あの清々しさや開放された感じは理解できないのだろうと。

つまり、言葉やコンテンツはあくまで体験のデータベースを引き出す記号でしかないということを、その天気予報を見て思ったんですね。ここには情報というパッケージが必ずしもなくとも、見るものすべてに情報は点在しているわけで、ことさら「取る」必要があるのかな?とも感じるわけです。

若林
うん。ニュースから「世の中はこういう風になっている」とか「日本語ってこういうことだ」とかを感じられる……要するに、より抽象化した思考へ昇華できる。

情報や知識、ある種の思考を身につけていくことによって、それを「社会」へ還流させたり、仕事の局面で役立たせたりしないと、結局は情報の自家中毒を起こすようなことになるんですよね。かたい言葉でいうと「市民としての自覚」に戻ってくるサイクルがないと、人はそもそも何かしらの情報をなぜ得なければいけないんだという話になる。メディアというか報道ってものの根拠は、一応は国民の「知る権利」に関わるものとしてあるので、まあ、ひとまずはそこに戻さないと気持ちが悪いことにならざるをえない。

青木
そうですよね。わかります。

若林
なんらかのアウトプットが必要なんですよ。それを社会全体が見失ってるんじゃないかと思いますね。

消費はいつから希望にすり替わったのか?

若林
あと最近は、「情報」と併せて問題かなと思っているのは「消費」についてで。

僕の見立てだと、戦後の日本国民は長らく「作る人」という定義だった。とにかく売るものがないからゼロから作らないといけなかったのが、1970年代を超えたあたりから消費社会への転換が起きていった。消費することが先にあって、それを追っかける形でモノが作られるようになるんですね。「作る人」ではなく「消費する人」が優先事項になっていったと。

1980年代の後半に、井上陽水さんが日産のセフィーロって車のCMに出てるんです。糸井重里さんが「くうねるあそぶ。」ってコピーを書いていて、そのCMの何が衝撃だったかって、井上陽水は運転せず助手席にいることです。裏話では運転免許を持っていなかったせいらしいんですけど、あの中では「乗るだけの人」が正当化されていて、作る側の論理よりも消費者側の論理が優先されていたわけです。

しかもそれが、おっさんなんですね。「くうねるあそぶ」と言ってるのが。これは大変なことですよ。じゃあ誰がものをつくるんだって(笑)。

それから同時期くらいに雑誌は、掲載される内容のすべてが消費情報に基づき始めました。本来的には雑誌から喚起されるアクションって「俺も音楽でもやってみるか」みたいなことだったのが「やべぇ、なんか買わなきゃ」になった。一方で、アメリカの雑誌ってモノの価格がほとんど載ってないんですよ。内容が消費情報だっていう認識がいまだにない。

青木
へぇ! 商品にフィーチャーしたコンテンツでもそうなんですか?

若林
あるにはあるんですけど、そこまで商品に執着してないんですよ。ただ、モノ自体をもちゃんとレビューするという気はある。ひとつの記事でも半分は消費者の有益になる情報で、半分は作っている側に寄り添うかたちになっているんですね。まぁ、いまやアメリカでもそれが崩れていっているんですけど。

で、情報を得て、それを買えば豊かになれるサイクルでまわっているうちはよかったけど、現代みたいに「モノを買ってもそれほど幸せじゃないな」って思いが生まれはじめると、そもそも消費情報を得ることの意味がなくなって、やっぱりこれも自家中毒を起こす。

そんなとき、メディアが載せる情報として、なにを、どこを、だれを、どういう風に、そして人々を何へ向けて動かそうとしているのかが問われるわけです。

青木
僕が思うに、消費情報を提供する最初の入り口って、「消費こそ希望」だったからじゃないでしょうか。

若林
ほんとに!そうそう!

青木
クラシコムは事業を通じて「新しい希望を作ること」を掲げているんですが、それは出口が「消費」だけではなくて、ちがう目線で見たら別の方向性や可能性が浮かぶかもしれないということです。いわゆる石庭を前にして、「石ころだ」と見るか、「美しい」と言えるかで、全く感じ方がちがうように見立てられることも、その方法のひとつですね。

若林さんがつくってきた『WIRED』にも、僕はそういうチカラを感じていたんじゃないかと思うんです。

若林
社会に対して別の夢を見れるチャンスは常にあったし、今もある。そこに対して働きかけることで、僕らが発信していた情報は意味を持つというか。そのサイクルを作って、何に向けて必要な情報だったのかを『WIRED』としても意識していないと、読者もわかんなくなっちゃうだろうと。

青木
そうですね。「新しい希望」って、言い換えると「新しい選択肢」ですから。オルタナティブな選択肢があることを知るだけでも価値があるし、異なるパースペクティブで物事を見たら希望が感じられるのって、僕は尊い行為だなって思うんですよね。

若林
それはすごくわかる。

青木
僕らはライフスタイルのメディアとして、日々の取るに足らないものの中にも非日常を感じられる瞬間があり、その瞬間によって日常に一息がつけること、あるいはそのパースペクティブそのものを提供できるのが、とても大事だと考えています。その世界に興味がない方から見れば、ぬるく見える情報もあるかもしれないんですけれど。

おじさんよ、未来ではなく、希望を語れ

若林
『WIRED』では「未来」という言葉をやたらと使ってたんだけど、僕はあんまり未来っていう言葉が好きじゃなくて。今度の4月19日に単著を出すんですが、そのタイトルも『さよなら未来』なんです。それは「未来」の捉え方を変えないと、本当の未来が見えてこないんじゃないかっていうようなテーマもあって。

というのも、世で多く言われてる未来って、基本的に株価情報と一緒なんですよ。「これから伸びる会社はどこなんだ?」みたいな話に。

青木
あー……「それでいくらになるの?だったら買っておこう」っていう(笑)。

若林
「未来」って投機対象なわけです。それが面白い人には面白いかもしれないけど。

青木
たしかに「未来」は「フューチャーズ」とも呼べるけれど、その言い方をした途端に「先物」って意味にもなりますもんね。

若林
でも、こっちは先物の話なんて興味ないわけで。

僕は思想家のイヴァン・イリイチがすごく好きで、彼が晩年に言っていたのが「人びとに『未来』などない。 あるのは『希望』だけだ」。この言葉を当てはめると、未来に囚われ続けてしまうと自分すら投機対象になってしまうってことなんです。

未来に向けて自分を開発して値段を上げていくと、それはいわゆる「財」になっちゃうわけですよね。でも人はそもそも財ではないわけだから。

青木
希望って、なんていうかな……意志じゃないですか。「こうなってほしい」という願いに一定の裏付けが伴う意志。

僕にとって希望という言葉は、45歳を超えてもなおキラキラしていて取り扱いが難しいですけれど、変なことに希望が持てなくなった“おじさん”だからこそ、その希望を診断したり、見分けたりする目利きのチカラも備わってきていると思うんですよ。

若林
ああ、それはいいですね。

青木
若いうちって、希望じゃないものを希望って思っちゃうじゃないですか。我々のように初老を迎えているおじさんたちは、それなりにいろんな希望に騙されてきているから(笑)。

若林
「それには乗っちゃいけないよな」って(笑)。

青木
希望の目利きとして、おじさんが堂々と希望を語りたいなって僕はすごく思ってるんですよ。はたから見れば、青臭くてダサいおっさんだなって後ろ指さされるかもしれなくても。

若林
でもね、それはその通りだと思う。実は「希望」を正面から取り上げた本って、僕もあまり聞いたことがないんですよ。ドイツの思想家であるエルンスト・ブロッホが「人類にとって希望とは何だったのか」を解き明かした『希望の原理』を残しているけれど、そこでブロッホが「希望は何かに媒介されないといけない。無媒介な希望とはほぼ妄想である」というようなことを言っている。だから、これは今、青木さんがおっしゃったことですよ。

青木
なるほど! おじさんは「希望の媒介者」になり得るんだ。

若林
希望って、いかに現実とセットにするかをプログラムしない限りは、ただの妄想ですし。結局、おっさんになってくると「この世の中は夢も希望もねぇな」って気持ちになってくるんだけども、それでもなぜ人は希望を持ち続けようとするのか、いかにそれを持ち続けることができるのかというのは面白い話なんですよ。

青木
ただ、真実味のある希望に出会ったときの心の震え方は、むしろ今のほうが激しいくらいじゃないですか? めったにないものだから「尊い!」って感じで、若い頃とも違うんですよ。

最近だと映画の『グレイテスト・ショーマン』で、フォーマットとして「終わった」なんて声もささやかれているミュージカルや映画に対して、制作者がそれに抵抗する怨念じみた意欲に胸を打たれました。語りだすと長くなるから、やめておきますが(笑)。

若林
最近、僕が割と気に入っているフレーズがあって、「未来はいいから希望を語れ」ってものなんです。投機としての未来じゃなくて、俺はこれに希望を見出したんだという話がもっと共有されないかなと。それこそ、ラッパーのケンドリック・ラマーが人気を集めるのも、彼は若い子らにとって新しい社会を思い描かせてくれる希望だからなんですよね。

青木
さっきの「情報」の話に戻ると、特にいまニュースで流れてくるような情報って、だいたい世の中に希望がないという話じゃないですか。ただ、本来的にはニュースに人々が求めたものって、希望の元と成りうるマテリアルだったんじゃないかと。

でも、みんなが希望を見せることに疲れちゃっているふしがあって、「今頃もう希望なんて……」という状況だからこそ、僕は希望というものにすごくコミットしたいというか。

若林
うん、面白い、面白い。希望みたいなもの自体が語りづらいし、フォーマットもないし。でも、なんかね、希望はあると思うんですよ。

青木
なかったら、もう人生やめたいと思うじゃないですか。

若林
本当ですよねぇ。

青木
おじさんなんて、ここから元気になることも、これ以上はモテることもなく、お金は増えるかもしれないけれど使うための体力は減って……でも、次の世代はこうなるかも?と、ちょっとでも思えれば元気も出るし、仕事しようという気になるんですよ。

若林
そうだ、希望で言うとさ、すこし前にパリへ行ったんですよ。たまたま会食で指定されたレストランが、すげぇおいしいビストロだったんですけど、給仕もシェフも日本人だったんです。しかも30代くらいの、若い子で。「これは希望だなぁ」って思った。

青木
わかります!

若林
美味しいものって、やっぱりすごいじゃないですか。昨日も好きなカレー屋へ行って、「やっぱこいつ天才だなぁ」と思って帰ってきたんですけど、これは僕の中では結構な希望なんですよ(笑)。『グレイテスト・ショーマン』じゃないけど、「もうカレーに希望なんてないだろう」と思っていたら「まだあるんだ!」って。

自分にとって知らなかったカレーが新しく開発され、自分のカレーに対する解像度がさらに高まり……なんていうか、豊かさがあるじゃないですか。それって言ってみたら希望のひとつなんですけどね。

青木
ほんとうにそれは希望ですよ!

いやぁ、僕としてはまだまだお話したいのですが、時間もきたのでこのあたりに。予想の斜め上をいく対話から「希望」で着地するとは思いませんでした。面白かったです。ありがとうございました。

前編「書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは

 

取材協力:コパイロツト (COPILOT Inc.)

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